昨日観た『叫』(黒沢清)について

●昨日観た『叫』(黒沢清)について。以下、ネタバレしています。
『叫』には2種類の異なる幽霊が出てくる。小西真奈美葉月里緒菜だ。しかしこの2種類の幽霊の質の異なりは、『LOFT』における豊川悦司中谷美紀との欲望が決してかみ合うことがないのとは違う。小西真奈美の幽霊は、役所広司が自身の過去を隠蔽するために生み出した幻影であり、見たくないものを見ないための遮蔽幕としてある。対して、葉月里緒菜の幽霊は、無意識の深いところから回帰しようとする記憶そのものの形象化である。(ここで、小西真奈美は、海を覆い隠す埋め立て地であり、葉月里緒菜は、地震によってそこから滲み出す海水である。地震は、役所広司の内部で起こりながらも、役所広司という主体によって制御することが不可能な無意識的な拍動そのものであろう。)だからこれは結局、抑圧され、排除されたもの(記憶、真実)は、必ず回帰するというお話で、役所広司一人の内部で起こっている出来事であり、だから『LOFT』のように破綻することはない。つまり、お話(脚本)のレベルでみれば、『叫』は決して複雑な組成をもつ作品ではない。
●だが、小西真奈美の存在はやや両儀的ではある。彼女は、役所をやさしくいたわり、出来事から顔を背けることを促すが、同時に、「未来なんて思う通りにはいかないものだ」という台詞を言ったり、自身が殺されている部屋にゆったりと視線を向けたりして、その「事実」をそれとなくほのめかす。そして、役所が、事件が起こった自分の部屋から逃げて、他所へ行ってしまうわないよう留めているのも、小西の存在なのだ。だから小西は、役所が事実を隠蔽することを助けつつも、来るべき時になって、役所が自身の行為を受け入れることが出来るようになるまで、猶予期間をつくり、その間、それがあった場所へ引き留めておくという役割をもっている。
●役所にとって、真に解明すべき謎は、葉月が何ものであるのか、葉月とどこで出会っていたのか、ということではない。この謎は、役所を、自分自身で知らないうちに彼が避けている「真実」の近くにまでおびき出すためのトリックであり、罠である。役所によるものではない連続殺人を役所に疑わせるのも、彼をそれとは別にある「真実」に知らず知らず近づけるための葉月の策略だろう。連続殺人の犯人たちが皆、過去をゼロにしたかったと口にするのは、それがまさに役所の欲望であるということであり、彼に対してその事実をほのめかしているのだ。(だからこの言葉を「ゲームのように現実をリセットする」とかいうような、今日的な風俗の表出と考えるのは間違っている。)医者が息子の幽霊を恐がり、交通課の警官が事故死者の幽霊を怖がるのは、役所に対して、あなたはこのような恐怖と向き合うことを避けているのですよ、しかし決して逃げ切ることは出来ませんよ、と告げているのだし、社長を殺した女子社員が役所と偶然出会うのは、彼に「女を殺した」過去を反復させるためである。
葉月と役所の邂逅の場所が、フェリーから眺められた不気味な建物である理由は、たまたま役所がその建物を不思議に印象深く覚えていたから、という以上の意味はない。それはたんなるシミであり、シミでありさえすれば何でもよかったのだ。役所にとっての真実とは、あくまで「小西を殺した」ということであって、葉月は、役所が(自ら隠蔽する)その事実へと導かれるための媒介的人物(幽霊)でしかない。(それは葉月が「地震」という無意識的拍動とともにあらわれることからも明らかだろう。)
●葉月は役所に向かって、「あなただけは許す」と言う。しかしもともと葉月は役所に対してだけ存在する。だから葉月ははじめから、役所を許すために存在する。役所が自分の探求によって、病院のあった場所にたどり着いたのではなく、葉月が役所をそこへ招き寄せたのだ。「許す」ために。幽霊は決して「行き先」を間違えないのだ。ここで葉月が役所を許すというのは、役所が、自分自身の意識に対して、過去を受け入れることを「許す」ということだろう。よってここで、廃墟となった病院は役所の部屋へとショートカットし(もともとこの病院自体まぼろしでしかないだろう)、そこで役所は小西の遺体(排除された記憶)を発見する。だからここで「許す」という言葉は決してやさしいものではなく、極めて残酷なものなのだ。役所は、「許される」ことによって、誰もいなくなった世界にたった一人で取り残される。ラストの「叫び」は、既に無意識(幽霊)と一体になった役所の恐怖(と孤独)の叫びでは無いとしたら他の何であろうか。ここでは、世界が滅亡したのではなく、役所が、(「真実」に直面したショックによって)彼と世界との接点を失って自分自身の内部に閉じ込められたということであろう。
役所は、小西の幽霊という幻影を通じて、それを世界と自分との間に立てることによって、ようやく世界との接点を保っていたのだ。そして役所にとって世界とはまず、同僚であり他者である伊原剛志のことである。(伊原は、この映画で唯一、役所に対する他者の位置にいる。)伊原が役所に対し、気遣ったり、喧嘩を売ったり、疑ったりして介入することでもまた、役所と世界との通路は確保されていた。だが、小西の幻影が消失して、役所が現実との接点を失って自閉すると、伊原は役所的世界から排除される。
(小西もまた、死者として役所の傍らにいる。しかしこの死者は実は役所のつくりだした幻影であり、それは「私」にあらかじめ組み込まれた外からの視線で、その視線は『回路』で小雪を背後から見つめる荒れた映像と同じ位置にある。)
●以上のことは、あくまで「お話」の次元で起こることに過ぎない。お話の次元だけで考えれるならば、この映画で起こる「唯一の出来事」は、役所が「小西真奈美を殺した」ということであり、しかしそれはこの映画の外にあり、この映画はそれに直接的に触れることはではず、その周りをめぐることが出来るだけだと言える。
●しかし勿論、この映画で起こっているのはそれだけのことではない。冒頭ちかくの地震の震動の唐突さ。液状化してぬかるんだ最初の殺人現場を捉える驚くべき横移動のショット。役所広司の身体を貫く苛立ちと疲弊。疲労を感じさせるぞんざいな身のこなし。脂ぎった顔。湾岸の荒んだ風景。徐々に近づいてきて最後にはどアップになる葉月里緒菜の顔に当たっている繊細な光り。あるいは葉月の奇形的なまでにやせ細った身体とそれを包む赤い服。役所の住んでいるアパートの水色のドア。いつもながら妙な車の走行。泥のなかからあらわれる黄色い電気コード。医者が薬品を鞄に忍ばせたその時、絶妙のタイミングでフレームインしてくる看護婦。医者が子供を殺すシーンや、その医者の取り調べシーンなど、長回しのシーンに張りつめた緊張。警察署内の空間。娘を殺された母親の何とも妙な立ち振る舞い。まるでゴダールの映画のように車と衝突する犯人。消える直前の小西真奈美が着ている赤と緑の混じったワンピース。誰もいない街中で風に舞うビニール袋。などなど、それらの細部が、荒々しく次々と目に押し寄せてきて、こちらがそのショックを充分に受け止め、因果関係を探るよりも早く消えてしまう、そのたたみかけるように重ねられる感触こそが、この映画を観るということてはあるのだけど。
●とはいえ、例えば『回路』で起きている出来事は、世界で(つまり「私」の外側で)起こっていることのように感じられるのだが、『叫』では、その世界はあきらかに役所広司の世界で、出来事は彼の内部での出来事であるように感じられるのも確かなことだと思う。(『回路』は複数の人物たちの物語だが、『叫』は役所たった一人のための物語であろう。なにしろ、『回路』における麻生久美子にとっての加藤晴彦のような存在である小西を、役所は既に殺してしまっているのだから。)この映画のなかで起きること全てが、役所広司と関係し、彼のなにものかを反映しているようにみえるのは、(上述した「お話」のつくりによるだけでなく)フレーム内に視覚的な情報が過度に圧縮されてあるため、現実であるより幻想に近いものと感じられるからというのもあるだろう。ここでの映像は、眼球にべっとりと貼り付きそこに釘付けにさせるような映像であって、世界の広がりと深みとを示し、世界とのアクセスを開くような映像ではない。(もしこの世界が「役所広司の世界」でないとしたら、「彼一人だけ」が許され、「彼一人だけ」が生き残るなどということはあり得ない。役所を「許す」のは、『アカルイミライ』の藤竜也のような他者ではなく、幽霊=彼自身の無意識なのだから、この世界はあらかじめ閉じている。)そのことによって、この映画は全体として、何よりも主人公である人物(吉岡登)の、苛立ち疲弊する、不安定な孤独な存在感や実存こそを、生々しく描き出している。
●そして、昨日も書いたけど、この映画を観ていて何度も、役所広司の顔が、黒沢清のように見えてしまったのだった。