黒沢清『叫』と浅見貴子「樹木図5」

新宿武蔵野館で、黒沢清『叫』を観て、損保ジャパン東郷青児美術館(損保ジャパン美術財団選抜奨励展)で、浅見貴子「樹木図5」を観た。
黒沢清『叫』。これはすごく良かった。『ドッペルゲンガー』、『LOFT』と、モヤモヤの晴れない作品がつづいて、観るのが気が重かったのだけど、これはスッキリと、まさに「黒沢清の映画」だった。『ドッペルゲンガー』や『LOFT』は、黒沢清に影響を受け、その作品を徹底的に研究した黒沢マニアが撮ったような作品だけど、『叫』は、こんな映画、黒沢清オリジナルにしか撮れないだろうというような(何かを突き抜けた)作品だと思う。ちょっとやり過ぎというか、ハッタリかまし過ぎかとも思うけど、この視覚的な過剰さが、マニエリスムっぽくなっていないのが良い。(犯人が、まるでゴダールみたいに車にぶつかる所とか、病院で、まるで『エクソシスト3』みたいな唐突さで看護婦がフレームインしてくるところの不穏さとか、ああ、これをやっちゃってるんだ、というか、この呼吸を「体得」したんだ、という楽しさがある。)黒沢清が今までやってきたホラー系の作品の、主題やテクニックを高度に煮詰めつつも(とにかく、細部の充実は半端ではない)、それをたんなる反復とは別の次元で組み合わせた、といったところだろうか。(いきなり「地震」に「液状化」で、「やられた」と思った。)良い作家というのは、同じことを反復しつつも、それを常に新鮮なものとして新たに組み立てるものなのだ。(作家性というのは、主題やテクニックにあるのではなく、勿論メッセージなどにあるのでもなく、反復される主題によってその都度「何をするのか」という次元にこそあるのだ。)あと、この映画では久々に、「風景」の力が復活しているように感じた。『回路』か、あるいは『カリスマ』くらいからちょっと感じていたのだけど、最近の黒沢清の映画に出て来る黒沢的な廃墟は、ちょっとパターン化してしまっていて退屈だったのだけど、『叫』では、それ以前の作品にあった風景のざらついたリアルな感触が戻って来たように思う。
この映画は、幽霊は決して間違わない、手紙は必ず宛先に届く、という意味でラカン的、反デリダ的な映画だと言えて、そのような意味でホラーとして王道で、破綻がない。(映画の途中でオダギリジョーのカウンセラーが「幽霊」を正しく解釈してしまっているし、その後の展開も、その解釈を大きく踏み越えることはない。)黒沢清の映画が、こんなに破綻がなく分り易くて良いのかというくらいに、きれいにまとまっている。この破綻のなさ、スッキリとまとまって「オチがついている」感じを、やや物足りなく感じなくもない。でもその「まとまり」とは、たんにお話(脚本)のレベルでのまとまりに過ぎないわけで、たんに混乱している『LOFT』よりも、ずっと真面目なつくりだとは言える。あと、ここまでやり切ったのだから、今後当分は、ホラー系の作品は封印してほしいと思った。(もう、黒沢清にとって、ホラー的な「幽霊」の答えは出てしまっているのではないだろうか。)
●観ていて、途中何度も、ヒゲ面の役所広司の顔が、黒沢清の顔に見えて仕方がなかった。
●浅見貴子「樹木図5」。この一点だけを観に行った。(他の作家の作品はあまりに酷いので、目が麻痺しないように、出来るだけ目にはいらないようにした。)この作品は、以前の浅見さんの作品よりも「白」の役割が大きくなっているように思う。ここで白とは、紙の白であるよりは、胡粉の白だ。和紙の「裏」から描く浅見さんの白は、裏側から滲み出てくる色なので、直接的な強さはなく、下手をすると「修正している白」にも見えかねない。しかしこの控えめな白が、紙の白と墨の濃淡とは別の、第三の次元をつくり、紙の白とも墨の色とも両方に絡むことで、紙と墨との関係をより複雑で豊なものにする。「樹木図5」は、割合遠くから見られたような細い枝の樹木の具象性の高い形象と、心臓に直接作用するようなリズムをもつ、力強く穿たれる点によって出来ている。実際に目に見える樹木の形態をよりどころにして描かれるものと、実際に目に見えているわけではない律動を掴み取ろうと穿たれる点との、画面のなかでの緊迫した絡み合いこそが、浅見さんの作品をかたちづくる。そしてその絡み合いは、画面に余白としての紙の白が多く残されるような作品ほど、不安定になるように思う。樹木の形態と点との関係が、危うくなる。そして浅見さんは、その不安定さのなかに、新たな可能性を見出そうとしているかのようにみえる。そしてそこに、胡粉による白の、媒介としての大きな意味があるように思えた。