08/01/17

●『もうひとりいる』(柴田一成)をDVDで。ツタヤのレンタルが一本200円だった日にまとめて借りてきたなかの一本で、何の予備知識もなくなんとなく観たのだけと、ちょっと面白かった。映画としてみれば、不満はいっぱいあって(特に、この監督は俳優の演技をみられない人なんじゃないかと感じた)、あまり質が高いとは言えないかもしれないけど、何というのか、「新鮮」だった。ホラーというジャンルはもう完全に飽和状態だと思ってたけど、まだジャンルとしてやれることがいろいろとあるんじゃないか、と思わせてくれるような映画。(というか、これをもっと徹底してやれば、ジャンルを突き抜けた異様なものが出来るのではないか、と。)
特にすごいことは何もやってないし、むしろ小さくまとまり過ぎの印象がある。ただ、恐怖の対象が幽霊ではなくドッペルゲンガーであること、そして、登場人物全てのドッペルゲンガーが登場すること(だから、どの人物も「もうひとり」ずついる)が、この映画の面白いところだと思った。手法的には、ドッペルゲンガーはたんにカットバックで二人にみせているだけだし(黒沢清のマルチ画面みたいな形式的に「凄い」ところはまったくない)、人物の顔や骨格が歪む(おそらくここが最大の恐怖のポイントだろう)のも、おそらくきわめて簡単な画像処理がなされているだけだと思われる。(それにしても、リンチの『インランド・エンパイア』でもそうだったけど、ほとんど福笑いのような次元で、ごくチープな画像処理で顔が歪むことが、何でこんなに異様な感じをもたらすのだろうか。このちょっとした画像の歪みが、世界の基盤を揺るがし、世界全体を信用ならない感じにしてしまうのだ。)
つまりこの映画は、(Jホラーにおいて異様に発達した)小手先の怖がらせるテクニックの精度によってみせようとする作品ではなく、あくまで、全ての人物が鏡像的に分裂してしまうという構造的な異様さ、恐さ、そして可笑しさによって成立している。むしろ、細部に(こけおどし的に)「凄い」ところがまったくなくて、構造的な異様さだけが、(順列組み合わせ的に)淡々と展開されてゆくところが新鮮なのだと思う。この感じはちょっと、黒沢清の『花子さん』に近いかも。(とはいえ、それにしてももうちょっと俳優の演技や人物の描写を丁寧にやってほしいとは思う。クライマックスに近づくにつれ、ちょっとそれはないんじゃないかという感じがどんどん増してくる。)