●好き・嫌いという点からみて、今年観た(観直した、ではなく、はじめて観た)映画のなかでもっとも好きだったのが高橋洋の『恐怖』で、最近DVDが出たので観直して、改めてそう思った。九十年代の終わりに黒沢清の『蜘蛛の瞳』と『復讐・消えない傷跡』を偏愛したのと同じくらいに(という言い方は、自分に対してしか通じないけど)、この映画にハマりそうな感じがある。
(『恐怖』は、黒沢清『叫』と姉妹のような映画だとも思う。まさに、分身であると同時に対称形でもある、高橋洋的な姉妹関係。あと、『恐怖』の、中村ゆり藤井美菜の姉妹は、高橋洋的姉妹の今まででもっとも完成度の高い形象化ではないかと思う。しかしそれも、どことなく『叫』の葉月里緒奈と小西真奈美の面影をまとっているような気がする。)
『恐怖』という映画は、世界の外(あの世、霊的進化)を目指している人が、世界の限界の向こう側へと至ろうとするのだが、その行為が世界を(靴下をくるっと裏返すように)裏返してしまう、つまり、あの世へ行くのではなく、この世をあの世へと反転させてしまうという話で、世界には実は外などなく、ただぴったりと背中合わせになった裏側(似姿)があるだけ、という出口なしの感覚こそが「恐怖」ということなのだと思う。「この女は自分の子供に処女を奪われるんだ」という台詞があって、この映画では自殺しそこなった処女の女性が「あの世」を孕むのだが、このネガティブな処女懐胎は、処女膜を世界の限界−軸(靴下の先っぽ)として世界がひっくり返るということで(処女膜が外からではなく内から破られるという反転が、世界全体の反転の軸となる)、だからこの映画で、処女膜や処女懐胎は宗教的、あるいは文学的な意味があるのではなく、形式的(数学的?)な意味がある。
外がない、あるいは、外は裏か、でなければたんに無(イメージを無化するプロジェクターの光そのもの)でしかないという感覚がある一方で、もう一つ、主に夢として形象化されている、多元的世界の同時共存という感覚もある。しかし、外がない世界のなかでの多元世界の共立とは、つまりは輪廻でしかなく、そこには同一の運命の果てしない繰り返しがあるばかりだ、ということになる。
だが、このような徹底した外の無さ、徹底した世界の平板化というハードな「限定」(思考する脳がその探究の対象として物質としての脳に行き当たらざるを得なくて、映画の登場人物が自らのイメージの源泉であるプロジェクターの光に行き当たらざるを得ないというような行き詰まり)によって逆説的に見えてくるのは、外が無いという形でネガティブに示されるまったくの無としての「外」であり、その無底で無限定な捉えようも届きようもないひろがりであり、それへの恐怖であるようにも思われる。それは端的に言えば死であり、「そんなの否定神学でしょ」と言って済ませてしまえば簡単なのだが、でも、実際その恐怖の感触はそんな平板なものじゃない。
●あと、今年公開されたというわけではないけど、今年はじめて観て心底驚かされた映画が、ホン・サンスの『アバンチュールはパリで』と堀禎一の『憐 Ren』だった。この二本は、日記を読み返してみてもまともに感想が書けてないし、改めて観直した今も、書けそうにない。つまり、まだその「衝撃」の中にいて、衝撃から距離をとることができていない。特に、『アバンチュールはパリで』のラストに置かれる夢の場面はすごい。観ていて、鳥肌が立つのを通り越して、寒気さえしてくる。そして、なぜこの場面がそんなに衝撃的なのか、自分に対してさえ説明ができない。この場面は、たんに過去の回帰ということでは済まされない生々しさがある(女はなぜ風呂に行くのか、あの白磁の壺の、象徴とか比喩とかを越えた異様な突出は何なのか、自転車が下ってくる坂道の異様さ、部屋の窓の外を通る人影の異様さ……)。こんな場面を撮ってしまうホン・サンスは本当に恐ろしい。
●『恐怖』、『アバンチュールはパリで』、『憐 Ren』の三本は、表面的な意味での作風が異なるだけでなく、制作者の、映画に対する姿勢というか、もっと言えば、世界そのものに対する姿勢が大きく異なっている、というくらいに違う。あるいは、その成立の(外的)事情もまったく異なるだろう。しかし、ぼくには、共通する何かがあるように感じられ、そしてそれはとても重要なことであるように思われる。共通するというより、何というか、世界の底に突き当たるようなリアリティの感触と言えばよいのか。そして、そのリアリティの感触が、最も濃縮した形で端的にあらわれているのが、『アバンチュールはパリで』のラストの夢なのだと思う。そして、それを解く鍵というか、そこへ触れるためのヒントが、『恐怖』と『憐 Ren』には書き込まれているように思われる。
●『恐怖』について
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20100723
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20100725
●『憐 Ren』について
(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20101128)
●『アバンチュールはパリで』について
(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20100712)