●今年最初の映画としてDVDで『恐怖』(高橋洋)を観ていた。改めてこの映画が自分にとっていかに重要なのかを思った。変な言い方だが、すべてのカット、すべてのモンタージュ(そして構成)が、他ではなくこうであるということについて、いちいち腑に落ちる(厳密に言えば最後の方がぼくの感じとはちょっとズレるのだが)。それは「説明できる」ということではなくて、なぜそうなのかを説明は出来ないけど、自分の見た夢が、外側に正確に再現されてしまっているとしか思えない、という感じ。それが、かならずしも実際につくった人の「狙い」と重なってはいないとしても。
自分の姿を外から見ること(逆に自分から見られること)、ある人の脳の内部で起こっていることが周囲の環境に影響すること、夢と現実とがメビウスの輪のように繋がっていること、女性が胎内に「あの世」を孕むこと、映像を見ている時、実は映像の方から見られていること、これらはすべて、裏と表が繋がり、内側と外側がひっくり返るということで、つまりある循環の中に閉じ込められてその外がなくなってしまうことになる。しかしその時、外は、その閉じ込められた内側に迷宮として(非空間的・非時間的に)広がるものの中に宿り、裏が表に、内が外へひっくり返るその一瞬の落差(ブランク・隙間)として垣間見られる。その落差がここでは「恐怖」と呼ばれる。その落差は、ここでは母娘、姉妹という関係によって導かれているように思う。そこで何かが継承され反復されるのだが、反復されるごとに少しずつブランクが孕まれてゆく。究極の落差(恐怖)が絶対的な自己消失(吸血鬼の叫び・絶対的な外の無さ)ということになっているが、しかしそれもまた、母から娘へ、姉から妹へと(決して受け継がれないものとして)受け継がれて、つづいてゆく。