●物語とは、因果関係を紡ぎだし、それを信じることだとして、ぼくにとって興味があるのは、その物語の内容でも、それを信じることでも、それを書き換えることでもないという気がする。人が物語を生むのは必然かもしれない。でも、その物語を生むアルゴリズムそのものを解析、解明することに興味があるのでもないようだ。物語そのものでもなく、物語生成の仕組みや仕掛けでもなく、物語の生成-それを生む計算を「走らせている力」というか、その力を発生させている場のあり様が気になる。既に出来上がってしまった物語から読み取るべきなのは、それが出来つつある時に働いていた力の感触くらいのものではないかという気さえする。物語そのものでも、それを生むアルゴリズムでもなく、その中間で「働いている何か」。これはまったく抽象的でつかみどころがないが、しかしなによりも生々しいものであるように思われる。
●1日の日記で引用した伊藤正博のテキストにあるように、幼児が≪他者の声をシニフィアンとして聞き取るということは、潜在的にみずからの身体によってその分節化を反復することなしには不可能である≫。これはつまり、他人から「○○ちゃん、眠いの?」と疑問として投げられたことばをそのまま反復して、「うん、○○ちゃん、眠いの」と口にして返すことで、それを「肯定文」として生きることでようやく「わたし」は、その「○○ちゃん」の位置をシニフィアンの連鎖の内にある自分の位置として発見する、というようなことだろう。他人に憑依される形で、他人の視点から発せられた「○○ちゃん(あなた)は…」という問いかけを、自らの身体という場で反復し、折り返し、「○○ちゃん(わたし)は…」と主体的に語り返す。さらにここで「○○ちゃん=わたし」が「眠いのではないか」ということは、わたしが自分で内的に判断するのではなく、解釈として他人(大人)から、外から与えられる(例えば、さっきまで元気だったのに急におとなしくなった、という様子からそのような解釈がなされ、「○○ちゃん」へ向けて発話がなされ、それ語りが「わたし」において、差し込まれ、織り込まれる)。わたしは、他人の解釈を通して、自分の状態(気持ち、欲望)を知る、というか創る。
その時、「わたし」は本当に眠いかどうか分からない。言葉以前の「わたし」は、自分が眠いか眠くないかなど知らず、ただ身体の諸条件に従って、眠ったり眠らなかったりする。しかしシニフィアンの連鎖に組み込まれる過程で、「○○ちゃん」という位置とともに「眠い」ということがらを受け入れる。実際は(厳密にはここで「実際は」などとは言葉では言えないはずだけど)「眠い三割、眠くない七割」かもしれないし、「眠い六割、眠くない四割」かもしれない。もし前者だとしたら、眠いと言って横になったのに眠れなくてぐずりだすかもしれない(あるいはたんに甘えたい気分に支配されているだけかもしれない)。その時の「わたし」は「眠い三割、眠くない七割」などという表現は知らず、だからその状態を「眠い」という解釈=物語=現実として受け入れるしかない。「わたし」は、眠いはずなのに何故眠れないのか自分でもまったく分からない。
言葉にならない不定形の「眠い三割、眠くない七割」は、「眠い」という言葉によって表現形を得る。とはいえ、この表現形からは「眠くない七割」がはみ出してしまう。しかしこの「眠くない七割」は、(自分自身に対してさえ)表現形をもたないので、わけのわからない不快感としてあり、それとしてすら意識されないかもしれない。
だがここでも、察しのいい他者(大人)が「わたし」の状態をみて、まだあんまり眠くないのかねえ、と解釈して、おんぶして外に連れ出してくれるかもしれないし、絵本を読み聞かせてくれるかもしれない。この時はじめて「わたし」は、「まだあんまり眠くない(眠い三割)」という状態があり得ることを(またしても大人の解釈を通じて)知り、それを意識できるようになる。とはいえそれもまた外からの解釈(シニフィアン連鎖のなかの「ある位置」)であるから、決してジャストフィットはしない。
(たから、他人-大人-シニフィアン、あるいは規律訓練は、縛り付けるものであると同時に解き放つものであり、もろ刃の剣であり、どちらにしても人がそれなしには何も出来ない必須の何ものかであろう。)
これは決して幼児だけのことではなく、おそらく人は誰でもが多かれ少なかれこんな感じなのだと思う。「わたしの気持ち」は、シニフィアンを通じた他人からの解釈として「わたし」のもとへやってくる(「わたしの内側」はそもそも「他人の解釈」を通じて外側からやってきたものだ)。だとすれば、人ではなくても、例えば犬や猫、あるいはロボットであっても、このようなやり取りがあり得れば、ほとんど人のようなものだとも言えるように思う。
さらに言えば、だからこそ、「眠くない七割」を通りのよい「眠い」へと分かり易く要約することなく、不定形の感触にどこまでもこだわってアクションすること(おとなしくしていないでぐずること)は、もしそこで自分として独力で適切な表現が得られないとしても、他人が何かしらの別の表現形を見つけ出すこと(解釈すること)を誘発するかもしれず、だからそれは、たんに自分の気持ちの満足のためだけでなく、(シニフィアンの連鎖は内も外もなく繋がっているのだから)他人にとっても有用な「気持ち」の正確な表現に繋がるものでもあるかもしれない。そのようにして、行為と解釈の相互作用によってシニフィアンの連鎖を組み替えてゆくことが、われわれにとっての「現実=物語」の組み換えに繋がる、はず。その時、解釈はそれ自体で行為でもあり得、行為もそれ自体で解釈ともなり得る。とはいえ、それは決してジャストフィットには至らない。だから、発話も行為も解釈も常にその都度の創造であり、解釈が要約や固定化であってはならない。
●とはいえやはり、ぼくの関心は、そういうことそのものにあるのではないように思われる。このような「内/外」とは別の「外」がある。その外こそが「わたしの生成」と繋がっている。「わたしの生成」そのものが「わたし」にとって絶対的に外側にある出来事であるということは(わたしが「ある/ない」は「わたし以前」の問題だ)、シニフィアンの効果によって「わたし」から無意識の主体が分離して剥落する、ということとはまた別のことがらだと思う。これは、「ユリイカ」の横尾忠則特集に書いた、「世界観(シニフィアンの連鎖−精神分析)」と「わたしの生成(現実界?−オートポイエーシス?、原生計算?)」の違いということでもある。「?」がついているのは、現実界そのものは直接的には扱えないから。現実界が音もなく計算し作動する機械であるとして、シニフィアンの連鎖が人や物語が住む場所だとすれば、その接点、中間にある何ものか、そこで働いている場の作用、が気になる。
●今日つくったもの。水彩で彩色した水彩紙をちぎってつくったコンストラクション。








●一昨日つくったものと並べてみる。




●作品よりもごみの方がきれいな気がする。