⚫︎精神分析(≒ラカン)は、セザンヌの作品をかなり突っ込んだところまで解明している。ただし、一点、ぼくとしては相容れないところがある。それは、セザンヌの作品が作り出す「空隙」を、構造主義的な「ゼロ記号(null)」とみなしているところだ。たとえばミシェル・デヴォーは『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』の6章でセザンヌの空隙を《ちょうど数字並べのパズルにおける空白の枡目や数字のゼロのよう》なものとしている。しかしそれらは、構造の内部にあらかじめ組み込まれた空白・穴である。対してセザンヌの空隙は、どのような場合でも構造の外としてしか現れない「空隙」である。あるいは、構造の「外」としかいえない何かとワームホールのようなもので繋がっている「穴・空隙」である。
しかし、それ以外の分析は素晴らしいので、メモとして以下に引用する。不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』の6章「颱風の眼」より。
(とはいえこれは何かしらの結論めいたものではなく、ここから思考が始まる「前提」のようなものだ。ただ、何度でも前提を確認しておくことは必要だ。)
⚫︎否定性、台風の目=空隙、シニフィアンの示差的構造と想像的なもの。
《ラカンは彼が「絵筆の雨」と呼ぶものを力説している。「もし鳥が絵を描くとするなら、それは羽を落とすことによってではないでしょうか。もし蛇なら皮を脱ぐことによって、木なら余分な葉を取り除いて雨のように降らすことによってではないでしょうか」。》
《セザンヌがタブローのうちに吸い込まれてしまうのは、自らのうちに空隙をうがってから、つまり颱風の眼のように、彩色された微粒子の天変地異的な膨張の中心にエネルギー論的な空隙を穿ってからのことである。(…)古典的表象のこのような混乱、倒壊から、また、習慣的な視覚情報のこのような分解から、いかにしてこれほど暗示力豊かな風景が回復され、現れ出てくるのかという問題である。》
《(…)言語の三六音素、アルファベットの二四文字、音階の十二音、あるいはまさに画家の絵の具のチューブのような弁別的要素の全体を認めざるをえまい。肛門を起源とするシニフィアンの物質性がここですこぶる具体的に指示されているのである。したがって、まさに象徴的機能、より正確にいえばシニフィアンの操作こそが羽をもたない人間に報酬を与えてくれるのである。》
《(…)シニフィアンの分節は言語の専有物ではないし、想像的なものはイマージュの専有物ではない。この二つの対立はお互いに重なり合うのではなく交差しあうのである。》
⚫︎絵画的イマージュを生成するシニフィアンの構造
《幾何学的抽象の先駆であると誤解されている有名な命題も、同じように構造主義的な意味で解されねばならない。「自然界の一切は、球体と円錐と円柱をモデルにつくられている。これらの単純な形象に倣って絵を描くことを身につけねばならない。しかるのちに人は、好きなことができるようになる」。この命題によって理解すべきなのは、記号論における第二分節の単位――音韻論になぞらえられるもの――なのである。ディスクールが音素の秩序に従わなければならないように、絵画も形態素の秩序にしかだわねばならない。さらに次の言葉を聞いてみよう。「描くこと、それは目標を盲従的にコピーすることではない。それは数多くの諸関係のあいだのハーモニーを捉えること、それら諸関係を独自の色階のうちに移し入れて、新しく独創的な論理に従って展開させることである」。セザンヌは執拗に、また挑発的に自分が練り上げた体系について言及し、また主題や主張、メッセージに対する体系の優位を口にする。》
《言葉と色は一つの方向を向いている。画家は自らの文法を知っており、自らの文法を途切れなく極端にまで推し進める。》
⚫︎視覚は構成し、動いている
《すぐれたパースの記号論においては、類似性に基づくイコン的記号は、コンヴェンションに依存するコードに対立させられるのではないか。だが、そうすると、眼は見えるものを写真に撮るのではなくそれを構成するものだということを忘れてしまうことになろう。「知覚がすでに形式を与える」とメルロ=ポンティは指摘している。》
《(…)さきに引いておいたラカンの言葉、すなわち網膜の焦点に当たる明瞭さの中心野がタブローにおいては不在であることに関する彼の言葉については、その含意をしっかり汲み尽くしておくべきだろう。その言葉がいわんとしているのは、結局、逆説的にも視覚的注意はその移動に応じて、まさにその照準点に当たるものを暗転化してしまう、ということである。それは、すでに指摘しているように、ブルネレスキの中央に穴の開いた小板絵や、さらに別の例を求めるなら、アリスが眼差しを向けるが早いか空っぽになってしまう飾り棚(…)が典型的に描き出してくれていたような効果である。》
《この点をもっとも感覚に訴える仕方で描き出してくれるのが、やはりセザンヌの絵画なのである。すでに観てきたように、カンヴァスの上の色のタッチは、風景の現実の色を直接に指示するのではなく、色目の全体という媒介を水平的に、あるいは連辞論的に経由する。また、この色目の全体は、フェルナン・ド・ソシュールの表現を借りるなら、「ポジティブな項を欠いた差異の体系」と考えられるものである。実際、セザンヌの諸作品の全体は力動的で振動性に富み、連続する水平的指示、もしくは不均衡を埋め合わせるはたらきや捉えようのない波動回析から生まれてくる。それらはまた、本質的に回避的で、私たちの期待をはぐらかすものである。私たちはただ一つの細部に注意を固定することすらほとんど不可能である。というのもまず第一に、対象がそれ自身について何も明かすところがないからである。身体はその解剖学的構造を、木々はその正確な形態を、風景はその現実の形状を明かしてはくれない。さらに、なによりも、個々の形態に遠心力的な力が負荷されているため、私たちがその形態に注意を向けるやいなや、それは解体してしまうからである。》
⚫︎セザンヌは空隙を描く
《セザンヌは事物、身体だけを描いたのではなく、それとともに、そしてまずなによりも、それらを隔てている空隙を描いていた。空隙しか描いていなかったとすらいうべきかもしれない。個々の事物は、それらを取り囲むもの、それを包囲する=輪郭づけるものによって不在として浮かび上がらされる。その包囲=輪郭づけはまるで空間恐怖からきているかのようである。おそらくセザンヌは、ある事物の形と色を決定するためには、彼の視覚をその事物にではなく、逆説的にも他の事物や山や空によって構成される背景に対して調整し、背景の形と色を決定するためにはそれと逆のことをしようとしたのではないだろうか。その結果、ある形態は閉じた単位になることは決してなく、中間に置かれるもの、つまりラカンのいうスクリーンになる。》
《このように個々の事物は、その固有の存在によってではなく、ネガとして、つまり、それではないものの全体、それが否定するもの、隣接する諸々の事物へと送り返されるアレルギー反応によって決定される。隣接する事物は、この個々の事物を無として取り囲み、周辺へと眼差しを惹き寄せるのだが、こうして次にそれ自体が照準点になると、今度は自らの姿をくらませてしまうのである。》
⚫︎どこまでも遅延する構造は、見るものに「未来の先取り(的な予感)」を要請する。
《現に置かれているタッチは、それ自体としてまだいかなる具象的価値も有していない。それにもかかわらずこのタッチが自己を主張するのは、そのタッチが、絵画がやがて獲得するはずの色彩の体系に、横断的、先取的、想定的に関連づけられることによってである。》
《水平的な回避や先取観念、あるいは際限のない遅延といったこの絵画的戦略があれほど強い喚起力をもつにいたるのは、まさにこの戦略が生きた知覚にこそ対応するものだからである。》
《視覚というものは、途切れなくつづく忙しない両眼の細かな動きによって働く。眼は、中心の小窩からくる視覚喪失を予防しているかのように、視野をあちこちに走査するのである。あれこれと詮索するからこそ眼はものを見ることができる。差異を際立たせるこの構造主義的な跳躍から、形態は生じてくる。事物の隔たり、比較、シンコペーション、見積もり、待機、先取りによってのみ、人はものを見るのである。》
《色彩にしてもやはり、モザイクのように点から点へと記録できるような所与の性質を持つわけではない。客体性を生起させる諸対立の体系として、色彩に能動的にコントラストを与え、それを安定化させるのは、やはり眼なのである。必要となれば、眼は周囲の照明の色調を中正化することによって、色彩の差異を保持し、さらには強化しさえする。》
⚫︎差異化の過程そのものを捉える
《(…)セザンヌがついにはエスキスをその唯一の表現手段とするにいたるのも、(習作として)完成作を準備しているというより、知覚そのものを捉えなおすためだ、ということになる。つまりセザンヌは、事物中心主義的なイリュージョン、もしくは想像的なレアリスムが強く押しだされてくるまえの知覚そのもの、エスキスとしての、あるいは差異化の過程としての知覚そのものょ捉えなおそうとしたのだ。現実的効果によって捕らえられるがままになるのではなく、逆に効果としての現実を演出すること。私たちが見てきた表象=再現の禁止がもたらす副次的な利得とはこのようなものである。》