テアトル新宿で『恐怖』(高橋洋)。すごく面白い。高橋洋の世界では法が絶対的であり、そのことが世界を、そして作品の細部を貧しくする。そして、そこにこそ作品のリアリティがあるように思う。法が法則のように作動する。本来、法は破ることが出来る。むしろ、法はその侵犯のためにこそあるとさえ言える。しかし法則は、この世界の基本設定であり、それはこの世界が「この世界」である限り、この世界の「内部」にいる限り、破られることはない(法則を破るためには「別の世界」を設定しなければならない)。法則は世界と「わたし」に絶対的限界を強制する。高橋洋的世界では、法が法則と同等の強さをもつことで、世界が極めて狭くて平板ものになる。世界の限界がすぐ近くにある。人は、世界の絶対的限界に囲まれ、迫られるようにして存在する。この感触こそが高橋洋という作家に独自のものだと思う。以下、ネタバレしています。
世界の狭さ、平板さは、この作品の基本的な設定となって現れている。身も蓋もないことを言えば、この作品で「向こう側」をあらわす光の点滅は、要するにプロジェクターの光であり、プロジェクターから発せられた光がスクリーンに投影されてイメージとなり、そのイメージの内部に「向こう側」としてのプロジェクターの光が含まれる。プロジェクターからスクリーンへの投影が、再びプロジェクターに還される。つまり、この映画の世界全体が、映画-上映というシステムの内部に閉じ込められている。「あの世」が存在しないということは、映画の外が存在しないということだ。あらゆる人物が、映画の外へ出ることを強く望んでいながら、決してその外へは出られない。映画のなかの人物は決して映画の外には出られず、スクリーンの向こう側(裏側)には点滅する光しかない。つまり、映画のなかの人物が向こう側(霊的進化 ! )を望んでも、行き着くのは、自分自身の似姿か、あるいはプロジェクターの光そのもの(イメージは、プロジェクターの光をフィルムで制限することで生まれるのだから、光そのものというのはイメージ-フィルムの消失であり、つまり「ただ消えてしまう」ことだ)しかない。それはこの作品が「映画論的な映画」であることを示すのではない。重要なのは、世界のひろがりのなさ、厚みのなさ、出口のなさの感触なのだ。『恐怖』とはつまり、この狭い世界には出口も行き先(未来)もなく、我々はそこに閉じ込められているということなのだ。
『恐怖』を観ると、『おろち』(原作・楳図かずお、監督・鶴田法男、脚本・高橋洋)が完全に高橋洋の「作品」であったことが分かる。どちらも母と姉妹の話であり、母と姉妹との間に確執がありつつ、母の何かを継承した姉と、継承しなかった妹との対立もあるという話でもあり、姉と妹が同じ男性を取り合うという話でもある。そして、母から姉妹への「何か」の継承はフィルムの上映によってもたらされ、その何か-呪いは、フィルムが焼ききれること-プロジェクターの光が露呈することとして予感される。そして、プロジェクターの光の露呈は、世界の限界そのものであって、その先にはなにもない。つまり、それ以上の「秘密」はない。世界の深淵や神秘は存在しない。世界の向こう側(彼方)には、自分の似姿(それは母-娘の関係であり、姉-妹の関係であり、同じ一人の男の使い回しであり、要するに果てしのない鏡像的反復-輪廻である)があるのか、それとも全てのイメージを消してしまう光そのものがあるのか、その二つしかない。
果てしのない輪廻は、『ソドムの市』や『血を吸う宇宙』(監督・佐々木浩久)で展開されている。『血を吸う宇宙』では、夢の入れ子構造として輪廻が表現される点で『恐怖』と共通している。しかし実は「入れ子」構造というのは間違いで、入れ子構造が成立しないことこそが高橋洋的であるように思う。つまり、夢を見ても、目覚めても、あるいは、夢のなかでまた別の夢を見ても、ほとんど変わらない、おんなじ平板な世界がそのままつづいているだけなのだ。だからここでは夢さえも「向こう側」ではない。何度生まれ変わっても同じ運命が反復されるだけなのと同様、夢の世界もまた、現実の世界とそっくりであり、せいぜい展開が多少異なっているというくらいなのだ。分身も、輪廻も、夢のなかでみる夢も、ただ平板な鏡像的イメージを増殖、反復させるばかりで、向こう側、未来、謎、神秘、秘密、深淵、超越性、世界の外、等々へは連れていってくれない。世界は狭く、その限界はすぐ近くに常に迫っている。その切迫感が、人物たちに強く「世界の外」を希求させる(霊的進化 ! )。しかしその試みは成功しない。向こう側へ境界を越えたと思った瞬間、向こう側はこちら側へと折り返してくる。重要なのは、そのような「仕組み」そのものではなく、高橋洋の作品のもつ、貧しさと狭さのリアリティであり、そこにある独自の歪みであり、(死によってさえその外に出られないかもしれないという)その切迫と恐怖の感触なのだ。
●昨日の日記の「作品の構造」についての話で、ぼくの趣味で「幽霊」という比喩を出したのは分かりづらかったかも知れない。例えば「幽霊」のかわりに「人間」と言ってもいい。人間には、生物学的な「ヒト」には還元出来ない何か、その一人一人のなかに決して侵してはならない何かがあると、そのように感じて他人、あるいは自分自身に対している。しかし、その「何か」がどこに、どのようにあるのかは簡単には言えない。生物学的な次元なのか、行動学、歴史学社会学、人類学的な次元なのか、脳科学的な次元なのか。言えないどころか、そんなものは幻でしかないかもしれない。たんに、他人や自分を「人間である」として扱った方が効率がよいから、ということで創出されたフィクションでしかないかもしれない。そのフィクションが有効でなくなれば、人間という形象そのものが消えてしまうかもしれない。
しかし、にもかかわらず、他人や自分のなかに、「人間」というしかない何かが宿っていることを、そう感じさせる何かがあるということを、意識的にしろ、無意識の次元にしろ、認めないわけにはいかない。表面的には「人間」に関する懐疑主義を装っている人ですら、その懐疑主義を支えているのは無意識の次元での確信であったりするだろう(追記、「人間」への信頼が無意識に作動しているから、安心して「懐疑的」であることが出来る、もしそうでなければ、必死で「信じること」を創出しなければ、生きられなくなる)。しかしその確信を保証するものは実はどこにもない。
「作品の構造」の「客観性」とは、「人間」の「客観性」のようなもので、それは「ある」と確信されるが、その根拠はどこにもない。故にそれをめぐる真摯な考察や言説は、必然的に胡散臭いものとならざるをえない。胡散臭さを回避するのは、真摯な態度ではない。