●お知らせ。以前にも一度お知らせしましたが、来週の火曜からはじまる「零のゼロ」というグループ展に参加します。期間は、7月27日(火)から8月1日(日)までの6日間。場所は、埼玉県立近代美術館の一般展示室です。





●下の二枚の画像は、この展覧会に出品するかもしれない(しないかもしれない、まだ決めてない)作品です。どちらとも「plants」で、上の作品はキャンバスにクレヨン、下の作品は折り畳んだ状態の段ボール箱にクレヨンで描いています。下のやつに切り込みが入っているのは、段ボール箱だからです。







●昨日、テアトル新宿に行ったついでにジュンク堂に寄って『洞窟へ』(港千尋)を買って来て、今日少し読んだ。とても興味深い。例えば、旧石器時代の洞窟画はしばしば、それを描いた人にしか観ることが出来ないのではないかというような洞窟の奥深い場所に描かれている、と。いや、描いた人さえ十分に観られないではないか、と書かれている。
コンバレル洞窟では、狭いところでは幅七十センチくらいしかない洞窟をなかへ二百メートルも進んだ頃にようやく壁画が目立つようになるそうだ。それは線刻画であり、いくつもの動物の像が重ね描きされているので、ひとつひとつの像が明確に見えるわけではない。
《何も描かれていないのでは、と訝しがる来訪者の顔色を見ながら、ガイドはライトの向きをやや傾ける。するとぬめっとした表面に、わずかに曲線が浮かび上がる。何か鋭いもので刻まれた線であるが、慣れない者の眼には、自然のものとも人工のものとも判然としない。ドルドーニュの洞窟ガイドは、必ず赤いレーザー光のポケットライトを持っていて、刻まれた線を赤い光の点で辿ってゆく。すると馬や鹿やビゾン、マンモスなどの見事な絵が浮かび上がる。》
《ガイドの赤いレーザー光を目で追いながら、わたしが感じたのは、これらの線画は鑑賞されるために描かれたのではない、ということである。(…)コンバレルの洞窟画の鑑賞法はただひとつ---壁に鼻をつけるようにして炎を這わせ、息をつめ全神経を集中して、目を皿のようにし、刻まれた線がつくる微かな影を、舐めるようにして見てゆくというものである。どこにどれだけ描かれているかも分からない絵を、線分を継ぎ足すようにしながら探してゆく。いや探すというよりは、寸分の隙間もなく描かれている線の群れのなかから、特定の線を選択し、動物の輪郭を再びみつける努力である。》
さらに、コンバレルの北西にあるルフィニャック洞窟について。こちらは重ね描きではなく、はっきりその輪郭が追える絵が、天井に描かれている。
《わたしたちは首が痛くなるのも忘れて動物たちのロンドに見入るのだが、これを描いた人々は、わたしたちとはまったく違う姿勢で描いていたことが分かっている。というのも、この部分が発見されたとき、地上から天井までの高さはわずか八十センチメートルしかなかったのだ。ランプを片手に持ち、腹這いになって入り口から一キロメートル以上の道のりを前進してきたことになる。いったいなぜこれほど天井の低い部分を選んで描いたのか、疑問が深まる---線のタッチから見て一時に描かれたに違いない。しかしこれを描いた人間は、丸い天井画の全体を眺めることはできなかったはずなのだ。馬とマンモスの配置には、明らかに意図的な組み合わせがあるのだがそれを一目で把握するためには、少なくとも現在のように二メートル以上離れなければならない。(…)それを制作した人々は、どうみても鑑賞するための距離を考えていない。制作するにも困難な場所を選んでいるのである。》
港千尋は、このことを謎のように感じているが、しかし、ぼくにはとても腑に落ちる。というか、この記述を読んで、ぼくの今やっていることが、何万年も前の旧石器時代の人がやっていることと変わりはないのだということが感じられて、すごく興奮する。鑑賞のための距離というのはひとまず置いておくとして、制作のためには、目による把握をいったん遠ざける、このような距離の無さが必要なのだ。色による制作はまた別だが、特に線による制作においては、自分がやっていることが一望出来ないという距離の無さが、線のコントロールや線や形態の生成に是非とも必要であるというのは、制作しながら素朴に日々感じることだ。線を引く(線を引き出す、線に触れる)ためには、線が見えていないことが必要だというと、必要以上に逆説を弄しているように聞こえるかもしれないけど、実際、線のコントロールは手や腕や身体全体の動きのイメージや感触で行っているのだから(線を引いている時、自分の腕の長さよりも長い距離を画面から取ることは、どちらにしろ出来ない、マティス中西夏之のような異様に長い柄の筆を使えば別だか)、「目」はそれほど役にはたたない。自分が引いた線の「結果」を事後的に判定するのには(つまり「鑑賞」には)、勿論「目」が用いられるのだが、線を作って(生みだし、動かして)いるのは目ではないし、目によって捉えられる空間ではない。とはいえ、ぼくはまだまだ、描きながら目で線を追っているし、目によってコントロールしている度合いが強すぎるとも常々感じてはいるのだが。
《描いた以外の人間にとって見ることが非常に困難なイメージの存在は、わたしたちが考えているような美学的な判断力や完成を前提とする「鑑賞」という態度とはも全く別のプロセスの存在を示しているのではないだろうか。》
という風に港千尋は書く。それはその通りだと思うけど、逆にいえばこのことは、我々が普通に「鑑賞」する時も、実はそんなに、全体が一望出来る距離を必ずしも必要としてはいない、つまり視覚はそれほど視覚的ではない、ということでもあるんじゃないかと思う。線を引くという時に働いている作用については、旧石器時代と現代とは、やっぱりそんなには遠くないんじゃないかと思う。