●部屋を出てドアを閉める。鍵をかけて、ポケットに入れる。暑い。晴れている。日差しが強い。アパートの前の三叉路を見渡しても、昼間の住宅街にはずっと先まで人気がない。しかしどこからか、「はあ」という間の抜けた男性の相槌のような声が聞こえた。寝起きですく電話に出て、頭が働いて無くて、相手の言っていることをよく把握しないままとりあえず相槌を打っておこうというような、半ばため息のような、力のないぼけた感じの声。住宅街の家々のなかのどこかから聞こえたのだろうと思った。十メートルくらい歩いたら、またまったく同じ「はあ」という声が聞こえた。決して大きな声ではないし、通る声でもないのに(何処かから息の大半が漏れてしまっているようなか弱い声だ)、さっきとまったく同じ強さ、同じ距離感で聞こえてくる。えっ、と思って立ち止まる。この声はどこから聞こえているのか。周囲を見回しても、人は誰もいない。変だと思いつつもまた歩き出す。二、三歩進むとまた「はあ」と聞こえた。微かな声-息にまとわりつかれているようだ。
その時、部屋のドアを閉めて空を見上げた時に見た映像が蘇り、あっ、と気がついた。もしかすると、と思って視線を上に向け、電線の上のカラスを見た。カラスは「はあ」と鳴いた。鳴くというより、カラスからその息が漏れた。
●『恐怖』(高橋洋)は自殺をめぐる話でもあるが、それは自殺(という救済の形式)の可能性さえ潰してしまう話でもある。こちら側から向こう側を覗き込もうとする視線が目にするのは、向こうからこちら側を覗き込む視線であり、向こう側から見たこちら側の姿(鏡像)でしかないという恐るべき形式的貧しさは、あらゆるロマン主義的な幻想(想像的なものの増殖)を打ち砕く力をもち、まるで、幽霊をどのように出現させるか(幽霊の想像-形象化)ということに全力を注いできたJホラー全体を否定するかのようですらある。幽霊が怖いのではなく、幽霊が存在する(出現する)余地がないということこそが最大の恐怖であると言うかのような強力なイコノクラスムがここでは響き渡っているように思われる(このことは、『ソドムの市』や『血を吸う宇宙』のような永遠に反復されるイメージ-運命-輪廻と正確に裏表の関係にあるだろう)。
《ある意味で形式化とは主体という問題を排除することであり、象徴的秩序における主体の欲望の裂開を縫合する試みである。しかし重要な点は、その形式化の行き詰まりにおいて主体の締め出しは失敗に終わるということであり、そこにおいて逆説的に主体のカント的なパソロジカルな欲望が明らかにされる。象徴システムの裂け目において現れる欲望の対象は想像的なレベルでにおいて様々な様態をとり、個々の主体は何らかの特定の欲望によって自らの存在を支えを受け取るわけであるが、むしろそうした裂け目そのものに、つまり形式化の限界としての現実的なるものそのものに同一化する主体について考えてみることが出来る。》(「KIMURA avec LAKAN」久保田泰考)
この論考では、木村敏の著作に「存在なき存在者」として描かれる離人症の症例が、「存在」そのものを対象aとする主体として考察される。通常、想像的な形象として(というか、想像的な対象の背後に)あらわれて、主体を支える対象aが、象徴的なものの裂け目そのものに見出されること。《「存在」を object a の審級において捉えること、それが我々にとって意味するのは決して言語化されえない「至高の存在」を実体化することではありえない。逆に我々の考察が依拠する象徴的秩序の一貫性が形式化の行き詰まりの中で破綻する地点において、つまり象徴界の裂け目において「存在」を取り扱うこと》。
ここで描かれる離人症の女性は、「私があるということ」「世界があるということ」という実在性が実感できない。《人込みの中へ行くと、自分がちぎれてバラバラになる。自分を見ている人の数だけ自分がいるみたい》。《個人として存在するのが怖い。死んで無になれるのなら死にたいが、死んでも「故人」としての存在を負わされるから死ねない》。これについて次のように記述がなされる。《いわば、「存在」は対象化されて object a となっている。もちろんそれは単なる対象ではありえず、象徴界の裂け目をふさぐためにやって来るのであるが、逆にそのため裂け目は決してふさぎえないことが明かされる》。「存在」は本来、個々の「存在者」の上位にある概念であるから、対象化できない。彼女においては、対象化出来ないものが(ロジカル・タイピングが侵犯されて)対象化されてしまっているいる。その結果、象徴界の裂け目そのものが、象徴界の裂け目を塞ぐもの-対象aとなっているというトートロジーが生じている、と。彼女はまさに「存在論的な問い」を生きているハイデカー的現存在である。彼女は、「私」や「世界」の「存在を実感できない(存在の喪失)」というネガティブな形で「存在」を愛している。そのような絶対的な矛盾によってなんとか生を維持している。「私」や「世界」はその「存在(実感)」を奪われることで、なんとか崩壊(精神病化)を免れているのだし、「故人」として存在を負わされるのが嫌だからという理由で(自殺という救済が禁じられることによって)、彼女の存在-生命もギリギリで保たれている。
存在という(上位の次元にある)対象化出来ないものを、存在の喪失(世界があるという実感の喪失)という否定性によって対象化する(愛の対象とする)こと。それは、象徴界の裂け目そのものを、象徴界の裂け目を塞ぐものとして使用するという、捻れたトートロジーでもある。それは、対象a−愛のイメージを失うことによって、ネガティブな形でしかあり得ない世界への愛を成立させているということだろう。これは『恐怖』という作品の有り様にとても近いように思われる。
●「KIMURA avec LAKAN」(久保田泰考)は、「批評空間」第二期4号(1995年)に載っています。