●「ゼロの零」展、搬入と展示。ドローイングも含めて、11点の作品を展示した。美術館の一般展示室という、広くて天井も高い空間だからこそ可能であるような展示になったと思う。たんに、こういう広い空間で自分の作品を観たかった、ということでもある。アトリエではこんなに大きい作品はつくれないし。制作時に作品の判断のために「引き(離れて観ること)」は特に必要ではないし、(狭いアトリエで制作する時に)広い空間に置かれた状態を想定する必要もない。その作品自身がある特定の空間を掴んでさえいれば、それは近くから観られても、遠くから眺められても、それぞれの距離にふさわしい、それなりの質をもつ。そのような感触を得ることができた。
それらは、あくまで、一点、一点、独立した、個別の作品として制作された(そのように観ることができる)ものなのだけど、同時に、11ピースの一枚の大きな絵画ということもできる。でも、それは特別のことではなく普通のことだ(洞窟に描かれた複数の動物たちには明確なフレームはなく、それぞれが個別の絵であり、全体で一つでもある)。それはつまり、一枚の絵もひとつのシステムに収斂されない複数の絵でできているということでもある。
●「ゼロの零」展は、7月27日(火)から8月1日(日)までの6日間(10:00〜17:30)、埼玉県立近代美術館の一般展示室でやってます。下の画像は、展示作品のなかの一点です。



旧石器時代の人と、現代を生きるぼくでは、生きる環境から、主体の構成、あるいは絵を描こうとする動機や欲望は、おそらくまるで違っている。その次元でのコミュニケーションは不可能であろう。しかし、線を引くこと、線によって形態を捉えようとすること、という行為をはじめた途端に、双方にほぼ同じシステムが起動し、作動しはじめる。絵を観ること、絵を描くことによってわかり合うのではなく、わかり合うことなく(それ以前の次元で)、共通の何かに貫かれる。そのように感じること。「霊が降りてくる」というのは、そういうことなのではないか。