●新宿で用事を済ませてから、北浦和へ。「ゼロの零」展の初日。
ざっと観てまわって、ちょっとツボだったのが、管章太の映像の作品(ぼくの作品の隣に展示してある)。アニメ「サザエさん」を録画して、サザエさんの家のシーンでキャラクターが誰も写っていないカットだけを集め、編集して、「誰もいないサザエさんの家」をつくりだす作品が特に、えっ、と思った。「サザエさんの家なのに誰もいない ! 」無人サザエさんの家は、ちょっとした衝撃だった。考えてみれば、いかにサザエさん一家が大家族だとしても、家に誰もいなくなる状態がまったくないはずはない。でも、今までそんな場面を想像したこともなかった。想像したとしても、無人サザエさん宅の内部に実際にカメラが入る(というか、描かれる)ことはまずないだろう。それを、モンタージュによって、実際に、この世界に出現させてしまった。
この「サザエさんの家なのに誰もいない ! 」という衝撃は、キャラクターと切り離されてしまったその住処だけが突出することの衝撃なのか、切り離されること-切り離すという行為によって「家」という建築物の(虚構的な次元ではあるが)存在が確立されたことの衝撃なのか、それとも、無人であることによって、逆にキャラクターの不在の存在を強く喚起することによる衝撃なのだろうか。
キャラクターがいないのに、「これはサザエさんの家だ」と分かるのは、これに前後して、サザエさんのキャラクターたちがシルエットのみで呈示されるカットばかりを集めて編集した作品など、別の「サザエさん」系の作品が同時に展示されているという理由もあるのだが(これらの作品は、「サザエさん」というほとんど自然と化したかのような超強力な既成のイメージ(文脈)に寄生しつつ、そのキャラクターの存在を薄めたり、消滅させたりするという共通した指向性をもっているように思われる)、しかし、いきなりこの作品だけがあったとしても、きっと「サザエさんの家だ」と分かると思う。これは「家」のキャラクター化なのだろうか。それとは、ちょっと違うことのような気がする。