●昨日、新宿へ出たついでに、ツタヤで『狂気の海』とか『ソドムの市』とか借りてこようと思ったのだが、さすがにすぐ近くで新作が公開されているだけに高橋洋関係のやつはだいたい貸し出し中だった。地元のツタヤでは運良く、『リング0バースデイ』、『リング』、『リング2』があったので借りた。『リング0』を観た。
高橋洋のホラーの面白いところは、本来、宇宙人好き系の作家なのにムリして幽霊の話をつくっているところにあるように思う。例えば、同じ、監督・鶴田法男、脚本・高橋洋というコンビでも、『リング0』は鶴田法男の作品(幽霊好き系)という色合いが強く、『おろち』は高橋洋の作品だという色合いが強いように思う。大ざっぱな言い方でしかないが、幽霊好き系において幽霊は、まず複数の、それぞれ独立した異なるフレーム(異なる系)の同時並列があって、その本来異なるフレーム同士の、共鳴、巻き込み、混同、フレームの決壊による混じり込み等が起こり、それらの出来事に乗じて複数のフレームを貫通する(しかし、どのフレームにおいても正体は掴めない)存在としてある。そこでは、劇中劇、様々なメディア(ビデオや写真や音声テープ等)、過去-記憶、夢、特定の呪われた場所等々が、現実の現在とは異なる系をつくり、幽霊は「そこ」からやってくるようにみえても、実はそれらのどこにも定住していない。幽霊は、別の系から「こちら側」へ越境してくるが、越境そのもの(つまり、フレームの破綻そのもの)が恐怖(リアル)なのであり、それがこちら側の世界で実体化することもない。
一方、宇宙人好き系においては、世界は単一の法が支配する単一のものであって、つまり、世界の複数の異なるフレームへの並立・分裂が成り立たない。逆にいえば、本来、異なるフレーム、異なるカテゴリーにあり、同じ空間に共存できないはずのものが、強引に一つのパースペクティブ上に置かれる。いわば、世界にメタレベルが存在せず、ロジカル・タイプが侵犯され、すべてがオブジェクトレベルに置かれる。故に、幽霊は存在しないか、あるいは、幽霊もまた、世界の中の物として存在する。その時、必然的に「空間の秩序(パースペクティブ)そのもの」が歪む。パースペクティブは歪んでいるのだが、すべての人は、そのような「歪んだ単一のパースペクティブ」の内部にしか存在する場所を持たないので(その外、その上、その隣は存在しない、可能世界が成立しない)、その歪みを的確に指摘する超越的な者はどこにも存在出来ない。それによって世界は、余裕や隙間、逃げ場のない、きわめて強迫的な場所になるだろう。この(不可視の)歪みと、そこからくる強迫性こそがリアルということになる。
例えば、『リング0』では、良い貞子(再生させる貞子)から分離させられた悪い貞子(破壊する貞子)が、幽霊となって生身の貞子につきまとう。そして、貞子の母もまた「呪い」として貞子につきまとっている。その時、生身の貞子という存在、その現在は、別の貞子、母の過去等、常に複数の異なる層と同時にあり(それらにつきまとわれていて)、そこに謎や神秘が生まれ得る世界の厚みが構成される。世界の厚みや奥行きは、複数の潜在的な層の同時並立と交通によって成り立つ。しかし『おろち』では、分身は即物的に「姉妹」という形で表現されるし、母の呪いもまた、身体にあらわれる痣として即物的に可視化される。当初、傍観者として半ば物語の外にいたおろちも、中盤以降、物語の内部に組み込まれる。「呪い」は、どこか深くて暗い場所、潜在的な別の次元(向こう側)からやってくるのではなく、この世界のなかでの、(平板な形象の)無限の反復という形であらわれる。
しかし『リング0』では、終盤、高橋洋色が強く出てくる。幽霊の話ではなくなる。何よりもその徴を深く刻んでいるのがラストだろう。貞子は深い井戸に投げ込まれるが、死ぬことが出来ない。ここで貞子は、呪いとなって、幽霊として、別の次元(時間の外)で生き続けるのではなく、たんにこの世界のなかの生物として死ねないのだ。同時に、幽霊でも超人でもない生身の貞子は、その深い井戸から出ることが出来ない。死ねない上に、井戸の外にも出られない。この、閉ざされた永遠こそが、高橋洋的な恐怖の根本であるように思われる(とはいえ、井戸の底で見る、田辺誠一の元で目覚める夢のなかにいる貞子-仲間由紀恵の赤ん坊の顔を思わせる見事なクローズアップは、幽霊好き系の鶴田法男が監督だからこそ撮れたのだと思うけど)。
●さらにさらに大ざっぱな言い方でしかないのだが、マティスが幽霊好き系だとすると、セザンヌはやはり宇宙人好き系ということになるのだろう。