2023/08/02

⚫︎マティス展をようやく観た。うーん、「マティスの中でも特別にすごいマティス」と言えるような作品はほとんどなかった(絵画に関しては)。それはある程度は仕方ないし、予想はしていた。今回は、ポンピドゥー・センターの収蔵作品が主になる展示だと聞くが、本当にすごいマティスの作品を持っているのは、フランスではなくてアメリカ(MoMA)とロシア(エルミタージュ美術館)だ。だから、アメリカとロシアにある「本当にすごいマティス」がないだろうということはあらかじめわかっていた。

(たとえば、「豪奢、静寂、逸楽」は、マティスの画家としてのキャリアを「歴史的」に考えれば最重要作品の一つだろうと思う。しかし初期作品だし、まだ「最高のマティス」には到達していない。ぼくはそれを「興味深く」は観るが、打ちのめされるまでには至らない。マティス展を観るということで気持ちとしてははじめから「打ちのめされに行っている」というか、体が「打ちのめされるモード」になってしまっているので、それでは物足りなく感じてしまう。)

ただ、それは前回、2004年の西洋美術館でのマティス展でも(ポンピドゥーセンターの協力で、つまりアメリカとロシアを欠いているという点では)同じはずだが、前回の展示にはあった「それでもやはりマティスは素晴らしい」と思わされる作品の多くが、今回の展示にはなかった。展示は、最初はまあまあ充実している感じだが、終盤に向かって、だんだん先細りになってくる感じで、テンションが徐々に下がってしまった。

たとえば晩年の作品としては、(2004年の展示では)「ブルーヌード」があったし「立っている裸婦、黒いシダ」というドローイングもあった。もうこの二点の作品だけで、いつまでも観ていたいと思うし、実際、立ちっぱなしの腰痛に耐えながら何時間も観ていた。デンション爆上がりだった。一方、(今回も展示してある)「ジャズ」は、晩年の代表作みたいな扱いになっているけど、実際はマティスとしてはそこまですごくない(と、ぼくは思う)。あと、「ジャズ」だったら印刷物で観てもそんなに変わらない。

(いや、ちゃんと観れば面白いはずだが、観られると期待していたものがいろいろ観られなくて、がっかりして、そこまで行く前にかなりテンションが下がってしまっていた。終盤は観るための丁寧さがかなり欠けていたかもしれない。)

オダリスクの作品でも、前回の展示ではかなり充実したいい作品がいくつか観られたが(何しろ「模様のある背景の装飾的人物」があったし「トルコ椅子にもたれるオダリスク」のヴィヴィッドさにも撃たれた)、今回展示されているのはイマイチのやつだ。マティスとしては弛緩していると言われるニース時代の作品でも、前回の展示作品では、いやいや、これはこれでなかなか素晴らしい、と思える作品があったが、今回はイマイチと感じてしまった。前回の展示では、マティスのドローイングがいかに素晴らしいのかを印象づけられたが、今回はちょっとしょぼっとしている(ドローイングは展示の仕方もあんまり良くないんだよなあ…)。

いろいろ事情もあるのだろうが、あまり良い作品を貸してもらえなかったのだなあ、と思ってしまった。期待値が高すぎた、観る前にテンション上げすぎた、ということもあると思うが、帰りはちょっとしょんぼりした感じになってしまった。

(「コリウールのフランス窓」と「窓辺のヴァイオリン奏者」が並んであって、次に「アトリエと画家」が展示してあるところくらいまではテンション高かったが、そこら辺から後、徐々に気持ちが落ちてしまった。)

ただ、そんな中で改めて素晴らしいと思ったのがマティスの彫刻だった。ごろっとした塊の中に、マティスの絵が潜在的に何枚も未分化なまま含まれているかのようで、(ぼくはあまりそういうことは思わない方なのだが)一日中美術館にいて、スケッチを何枚も描いてみたいと、かなり強く思った。すごく面白いのだが、「観ている」だけでは掴みきれなくて、手を動かしたいという気持ちが湧き上がってくる感じ。彫刻を観るためにだけでも、会期中にできればもう一度観に行きたいと思う。そしてもう一度行くとしたら、今度は、過度にテンションを上げず、謙虚な気持ちと平常心で絵と向かい合いたい。

(つまらない作品ばかりが並んでいたかのような印象を与える文章になってしまっているが、マティスなので、そんなことはまったくない。ただ、それよりも「より良いもの」を期待し過ぎていて、前につんのめってしまった、ということだ。だが、この展覧会を観て、マティスをこの程度のものと思うなよ、という気持ちはある。)

⚫︎しょんぼりしつつ、地元の駅前の本屋にふらっと立ち寄ったら、なんとなく文庫本を三冊買ってしまった。本屋で本を買うのは何年ぶりだろうか。レジ前で少し緊張してしまったくらいに久しぶりだ。