●寒い。外から帰ってきて部屋の鍵を開けようとしても、手がかじかんで思うように動かなくて、なかなか鍵を開けることができない(ぼくは手袋をしないので)。なんとか鍵を開けてなかに入っても、内側からサムターンをまわすのもままならない。部屋のなかは外よりも冷えている。
一駅隣の駅まで電車に乗る。普段は歩く距離なのだが。たった一駅分電車に乗るのに、吹きさらしの寒いホームで十分も電車を待つより、歩いて、ずんずん進んで行った方がずっと気持ちがいい。でも、だからこそあえて、今日は電車に乗ることにした。「立ち止まる」ことは、仕方なく、半ば強制されてでなければむつかしい。こんなに寒い時は尚更。ホームで冷たい風を受けながら、なにもしないで十分間ぼんやりと立っている。ただこの「寒さ」を感じるためだけに、そうしているかのように。
今、まったく何の予定もないので、一日中本を読んでいる。毎日喫茶店に通って、長時間居座ることはかわらないのだが、昨年末は必要があって、必要なものを読んでいたのだが、今は、何の必要もなく、ただ読んでいる。
●昨日につづいて『ラカンとポストフェミニズム』(エリザベス・ライト)から、引用、メモ。見せかけ、仮装、という主題について。これはたんに女性性にまつわる話というだけではない。仮装というヴェールは真実を覆い隠すが(というか、その裏に真実など無い、という事実を覆い隠すが)、人は、何かを覆い隠す仮装という媒介なしに真実に触れる(真実を構成する)ことが出来ない。それは昨日引用した、他者という構造が《ある種の欺瞞を介して働く》ということとも関係するだろう。しかしそれは空虚なフィクションというわけではない。仮装-演技-引用-反復という系列を通して、象徴界現実界に働きかけ、あるいは、現実界象徴界へと染み出して、象徴界を組み替える。真実とは、そのようなプロセスのことであり力のことであろう(だから仮装はまさに「芸術」の問題だ)。そしてそれ(現実・真実・力)は常に、主体の期待を裏切った、(失策のような)偶然のようなものとしてしか、あらわれない。(芸術家の「技術」とは、このような意味での「失策」を呼び込むためのシステムのことかもしれない。)
ラカンが強調しているのは有機体としての人間と主体の分裂だが、同時にその一方では、肉体的なものと精神的なものの連続性も認めている。有機体と主体が分裂していれば、生物学的な差異によってジェンダーを決定する必要はなくなるが、じつは、この生物学的な決定では、男性性と女性性は現実の肉体に由来するとつねに想定されているのである。そのように想定すると、自分の肉体が自らの選ぶ性的アイデンティティと合致しないと考える主体は、ひとつの見解をもつようになる。つまり、自分の肉体を外科的手段によって変えたいと求めるのである。
別の見方をすれば、主体の混乱は、「普通は」とりつくろった見せかけや仮装の形で露呈するといえる。一九二〇年代から三〇年代にかけて活躍した名高い精神分析家で、フロイトの著作の翻訳者でもあるジョン・リヴィエールは、有名な論文のなかで、女性らしさとは、社会が構築した女性性に順応するための隠蔽であり、ひとつのカテゴリーとしての絶対的な女性というものは存在しないということを示す仮装だと論じている。リヴィエロールの患者は、女さしさを「フェイント」や「隠蔽」として使っていた。というのも、「女らしさというヴェールの下には絶対的な女性性などなく、そこにあるのは女性主体に模倣や受け売りによって規範をたたき込み、女性「である」という社会的実践ができるように仕立て上げる、存在論的には中身のない一連の規則にすぎないからである」。》
《どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、「女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである」。》
《仮装は(動物に見られる誇示行為とはちがって)、想像界での行動ではなく、象徴界のそれである。》
(ここは昨日引用した部分と重複する)《女性固有の困難な状況に関係した仮装の概念を理解するには、主体と他者との関係の構造に目を向けなければならない。この他者とは、いったい何なのか。ラカンの思想における他者は、社会人類学カルチュラル・スタディーズなどの言説で言われる他者ではない。それは別の人や集団のことではない。精神分析においては、他者は個人とは関係なく、自律性をもったひとりひとりの自己が幻想として扱われる象徴体系として論じられる。他者とは、現実を決定したり、私たちの選択を指図したりするようなものではなく、実現することのない約束を介して構成的な欠如を乗り越える構造である。すなわち他者は、もし受け入れられて利用されないと、自己と社会に悲劇的な結果をもたらす、ある種の欺瞞を介して働くのである。フェミニズムがおちいりやすい罠は、そうしたパフォーマンスに参加し、従事するように求められているときに、こうした欺瞞を単なる家父長制支配だと解釈してしまうことである。》
ジュディス・バトラーは、女装する人の立場を考察している。彼女は、女装はヘテロセクシャルな規範を逆説的に追認するパロディーなのだから、必ずしも体制転覆的なものではないと主張している。
(略。…しかし)バトラーは、そうした「ジェンダー・パフォーマティヴィティ」がどのように機能するのかを説明していない。彼女はパフォーマティヴィティを説明するために、(デリダから借りた)「引用」の隠喩を使っている。「引用」とは何か。引用とは、他人の言葉を新しい文脈のなかに引っ張ってくることであり、必然的に新しい意味を生み出すものとなる。ところが、引用の概念には、まさにこの過程の説明が抜け落ちている。すべての発話は引用の形をとっているとも言えるだろう。なぜなら、私たちはすべての言葉を言語体系そのものから引用しているからである。象徴界とは、私たちが所有し経験する存在に言及するための策略にすぎないのだ。》
《仮装は、現実界象徴界と一致するものではないことを具体的に示す。仮装は、女性が自分の封じ込められた象徴界のシステムの制約の内側で、自分の主体性を達成しようとする試みである。》
《(…)男性はファルス的な意味作用に完全に入り込んでいるという意味でしか、完全なものとはいえないからである。一方、女性にはシニフィアンが欠けており、そのため仮装というペテンを使わなければならない。リヴィエールの論文の重要性は、純粋な女性らしさと見せかけとの違いを問題にしている点にある。「絶対的な女性は存在しない(「絶対的」は斜線で消されている)」というラカンの見解は、無意識のなかに「絶対的な女性(「絶対的」は斜線で消されている)」を指すシニフィアンは存在しないということを示している。仮装は精神的な構造を露わにするが、それは男性の欲望に対する返答ではなく、男性的な幻想に対する返答なのだ。しかも、生物学的な男女の区別は不適切である。あまりにも多くの人がその境界線を越境しているように思われる。》
(反復-引用-パフォーマンスという象徴的な行為と現実界の関係について)
精神分析家にとって、反復と現実界との関係には、無意識による意識への介入が含まれている。この関係は、精神分析で転移が起こっているときに見られる。これは精神分析の面接のさいに、患者が過去の重要な他者との関係を分析家に投影したときにおこる、無意識の願望の表出である。「反復されるものは、つねに、……偶然であるかのように……おこる何かである。」ラカンがここで言っているのは、「実現しなかった出会い」のこと。これは一方にある経験(「出会い」)の根底に潜むものと、もう片方にあるそれが理解されていないという事実を結びつける言葉である。それが認識されないのは、それを表象し理解することができないからだが、まさにそれこそが、反復を呼び起こすきっかけとなっているのである。現実界がとのように他者の期待に沿うように変えられて、機械的な反復に巻き込まれるのかを見つけるのが、分析の課題となる。》
象徴界は反復によって現実界に働きかけるが、決して現実界そのものに変わることはない。日常的な現実は、現実界から構築されるのを待っている。》
《言語のなかの言葉を使うことは、その一回一回が、アイデンティティの確立に努めながら現実界の一部を捉えたいと望んで行なう反復である。これが、どのように反復が行われるべきかを示す象徴界の作業原則だ。しかし、現実界は容赦なくこうした反復に侵入してくるため、パフォーマンスはある性格を帯びてくる。ここでようやくバトラーのいう「引用」が実際に何なのかが理解できる。「引用」は予測できない私的要素を巻き込むものであり、まさにそのために、象徴界の「虚偽」が目に見えてくるのである。》