ベケットが面白過ぎる。そして、酷すぎる。例えば次のような部分。『モロイ』(安堂信也・訳)より。
《入れ歯ばかりガタガタ鳴って言葉は不明瞭だし、たいていの場合、自分でもなにを言っているのかわからなかったようだ。私以外はだれにしろ、あのガタガタのおしゃべりにはとまどっただろう。それが止まるのはわずかの間母の意識がなくなるときだけだった。もともと私は母の話を聞きにいったのではなかった。母との意思の疎通には、その頭蓋骨をたたくことにしていた。一つたたけばイエス、二つたたけばノー、三つはわからない、四つは金、五つがさようならだった。母のくずれかけ狂い乱れた悟性をこの規則に慣らすのはたいへんだったが、どうにか成功していた。母がイエスとノーとわからないとさようならをどう混同しようとかまいはしない、私だって混同していたくらいだ。しかし四つたたかれていても金以外を連想すること、これだけはなんとしてでも避けなければならなかった。そこで、調教期間には、頭蓋骨を四つたたくと同時に、紙幣を一枚鼻先へ突きつけるか、口のなかへ押し込んだ。だが私も無邪気なもんだった。というのも、母は測量するという概念そのものを完全に失ってはいなくても、少なくとも、二つ以上を数える能力は喪失していたらしいからだ。母にとっては、おわかりのように、一から四まではあんまり遠すぎた。四つ目がたたかれたとき、まだ二つ目だと思った。最初の二つははじめから何も感じなかったのと同じくらい完全に記憶から消え去っていた。もっとも、はじめから感じなかったものがどうして記憶から消え去れるのかよくわからないが、こうしたことはよく起こるものだ。母は私がしじゅうノーとばかり言い続けていると思ったろうが、それは私の意図からまるっきりかけ離れていた。そこでこうした推論に導かれて、私は考えあぐんだ末、ついに、母の精神に、金の観念を組み込むのにもっとも有効な方法をみつけた。それは、頭蓋骨をたたくのに、人さし指で四つやるかわりに、拳固で、一つあるいは(必要に応じて)いくつでもなぐりつづけることだった。これだと母にもわかった。》
●この、一つの文と次の文との間にある、キレがあって自由な動き(細かくて、予想不能な方向転回)を一つ一つ追ってゆくのは、とても面白いのだが、同時に、とても疲れる。一つ一つの文を追っている時の、イメージが細かく動く感じと、あるエピソードのひとまとまりを読み終えた時に記憶し把握している、そのエピソード全体が「こんな話だった」という大ざっぱなイメージや内容とは(細かい展開や動きをすべては憶えられないので)、常にずれていて、しばらく先に行ってから、また戻って読み返してみると、自分の記憶のいい加減さに気づく。それがまた面白いのだが、そんなことを繰り返していると、全然先へと進めない。そして、この事実がまた、ここで引用したエピソードの内容と響いているのだった。