●昨日、早稲田松竹で『マルホランド・ドライブ』を観て面白かったのでその勢いで、帰りに新宿のツタヤに寄って(半額セール中だったこともあり)沢山DVDを借りてしまった。そこで『ナイト・ピープル』というリンチについてのドキュメンタリーも借りたのだけど、これはたんにリンチや関係者にだらだら話を聞いているだけのもので、特にこれといって面白いものではなかった。(バリー・ギフォードの顔が見られたことはよかった。)目についたのはリンチの髪型で、リンチは常に前髪を鶏冠のように突き立てている。顔の大きさとのバランスからいっても過剰なくらいに長く(大きく)突き立てていて、これは髪をセットするのがかなり大変だろうと思わせるものだ。そしておそらく、いちいちセットしている余裕がないためだと思われるが、映画の撮影中の場面ではキャップをかぶっている。しかしこのキャップもまた、ツバの部分が異様に大きく、長く、前へ突き出しているのだった。まるでアヒルのくちばしみたいに。(リンチのアヒル好きは有名だが、自身とアヒルとを同化しているのかもしれない。)おそらく、リンチ自身の内的な身体イメージとして、頭の前におおきく張り出す何かがないと、バランスがとれないのだろう。『イレイザーヘッド』の主人公のあの髪型も、おそらくリンチ自身の内在的なバランス感覚から出ているのだろう。
あと、リンチの絵はひどいと思う。リンチは、あらゆる意味で画家ではない。リンチには、テクスチャーに対する独自の感覚があるのだが、それはあくまで距離があってこそ成り立つ「距離の廃棄への欲望」(「触れられないものに触れたい」あるいは「物にではなく、イメージや音に触れたい」あるいは「イメージや音を触れるようにして扱う」)としてあるもので、絵画のように、画面に(あるいは絵の具に、つまり物質に)筆や手で直接触れられるものだと、テクスチャーへの繊細な感覚のコントロールが失効してしまうのだと思う。(たんに「どろどろ」にしかならない。)『ナイト・ピープル』には、リンチによる自作の家具が出て来るのだが、こちらの方がずっと造形的に面白い。おそらくそれは、三次元の空間のなかにあることによって、距離の感覚が作動するからだろう。(絵画は、二次元のなかに、どのような空間のイリュージョンを生じさせるか、ということなので、そこにはまったく別のアルゴリズムが、距離の設定が、必要となる。)リンチの感覚の面白さはおそらく、表面上はすっきり、かっちりとしている物が、いつどろどろに崩れてしまうかわからない(それが恐ろしいと同時に、そうなって欲しい)という緊張(徴候)にこそあるのであって、「どろどろ」そのものが面白いわけではないので、直接「どろどろ」をみせてしまう絵画では、面白くないのだろう。