『マルホランド・ドライブ』の構造は

●寝込むこほどでもないが、しかしかなり体調が良くないので、なにかとだらだら過ごしてしまう。だらだらしているのはいつものことなのだが、何か「抑え」がきかなくなっていて、下らないテレビ番組をいつまでも、スイッチをオフにするための気力が無いという理由だけで、だらだらと観つづけてしまうのは何とかならないのか。こんなことをしていても仕方ないので、夕方になってから出かけることにした。早稲田松竹に『マルホランド・ドライブ』を観に行った。レンタルDVDで簡単に観られる『エレファント・マン』と『マルホランド・ドライブ』の二本立てなのに、座席が九割がた埋まっているほどに混んでいて、リンチの人気の高さを思い知る。無理して出て来たはいいけど、やはり体調はおもわしくなく、映画の途中で寝てしまうかも、とも思ったのだが、映画があまりにも面白くて、圧倒されて最後まで観た。帰りには割と元気になっていた。金曜の夜の人ごみを高田馬場駅まで戻ると、山手線が止まっていた。
●『マルホランド・ドライブ』の構造は難解でもなんでもなくて、しかしその構造自体と映画の面白さとは、あまり関係ない。(だから構造を提示してもネタバレにはならないと思う。)いわば、夢の部分と回想シーンとが異様なまでに肥大したお話だと分れば、それはごく普通の物語構造に納まる。冒頭のジルバ大会のショットは、ナオミ・ワッツのハリウッド以前の「良い想い出」であり、次の、無人のベッドのショットが、ごく短い「現実の現在」で、ナオミ・ワッツが眠りにつこうとしている場面だ。そこからすぐに(「マルホランド・ドライブ」の看板とともに)彼女の「夢」のシーンとなる。勿論この夢は、さまざまな現実の「徴」に満ちているし、現実をほのめかし、現実を反映している。それと、必ずしもナオミ・ワッツという主体(視点)に収斂されるわけではない。(この「夢」の内実の充実こそが、まさにリンチの映画である。人は、現実よりもリアルに夢を生きる。)夢は、クラブ・シレンシオの場面までつづき、乱暴なノックの音によって目覚めされられ、ここでようやく再び「現実の現在」へ戻る。ノックした(以前この部屋に住んでいた)女が自分の荷物を持って去り、眠りを中断させられたナオミ・ワッツがコーヒーをいれようとして、ローラ・ハリングの幻(幽霊?)を見るところまでが、「現実の現在」で、その後すぐに「現実の回想」に入る(このことは、女が持ち去ったはずの灰皿がテーブルの上にあることによって示される)。冴えない女優志望のナオミ・ワッツが、はなばなしく成功するローラ・ハリングから裏切られ、彼女の殺害を、ウインキーズで街のチンピラに依頼するところまでが「現実の回想」で、回想シーンは、ローラ・ハリング殺しが完了した「徴」である青い鍵によって、「現在の現実」のシーンに帰って来る。そして、ナオミ・ワッツは、ハリウッドにやって来た時の最初の「良い記憶(徴候)」であった老夫婦の幻影に襲われて、銃で自らの命を断つ。(だから、この二時間二十分を超える映画で、「現在の現実」の場面は数分しかない。ある意味、マンキーウィッツ的な映画だ。)だがここで、自ら命を断つ女性は、まさに「顔のない死体」であり、誰でもない、誰でもありうる、誰かであろう(それがナオミ・ワッツの姿を借りてあらわれるのは、仮のことでしかなく、この死体は、まったく別の顔をしているのかもしれない)。そのような意味では、この映画の唯一の「現実」は、ベッドの上の顔の潰れた(顔のない)死体のみだとも言える。
この映画は素晴らしく面白いのだが、最後の三十分(ナオミ・ワッツが目覚めて以降)は、どうしても説明的というか、辻褄合わせっぽくなって、ややテンションが落ちてしまうのが惜しい。これだけ好き勝手なことをやっても、最後にはちゃんと辻褄を合わせようとするのだから、リンチはけっこう律儀な人なのだと思う。(あるいは、リンチは、たんに夢の強度を示すだけではなく、夢と現実とのあやうい関係をこそ、提示したかったから、このような形になったのかもしれない。夢と現実との「関係」こそがリアルということなのかもしれない。)