●『遠い触覚』(保坂和志)の最初の方を読みながら、リンチの作品の不可解さは、「モンティ・ホール問題」の納得のいかなさに少し似ているように思った。というか、本を読んでいて唐突に「モンティ・ホール問題」のことを思った。
以下のリンクは、以前の日記で「モンティ・ホール問題」について書いたもの。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20141225
(1)三つの扉ABCがあり、そのうち一つの扉の向こうに賞品がある。わたしは扉Aを選ぶ。すると、答えを知っている司会者(この、陰謀の首謀者的な司会者の存在がリンチっぽい)が、扉Cを開き、その向こうに何もないことを示す。司会者はこの行為によって、「わたしの最初の選択」における当たりの確率を下げてしまうのだ。
(2)上記の文はミスリードである。司会者は最初の選択の確率を下げたのではなく(わたしの選択が「当たり」である確率はかわらず1/3だ)、「わたしが選ばなかった方」の確率を上げたのだ(司会者の行為によりBが当たりである確率は2/3になった)。
(3)わたしは、最初の選択を捨て、選ばなかったBを改めて選択すべきだ。だがこの事態は、わたしの主観によって二種類の解釈が可能だ。(a)司会者の行為が私の最初の選択の価値を下げた。(b)司会者の行為によって、わたしは「より高い確率」をもつ選択の方へと導かれた。(a)は(1)に対応し、(b)は(2)に対応する。よって(b)と解釈するのが正しい。しかし、そうと言い切れるだろうか。
(4)ここでひっかかるのは、司会者の行為は「わたしの最初の選択」を必ず「間違ったもの」にするという点だろう。わたしが最初に何を選ぼうとも、その選択=判断は必ず間違い(「外れ」という意味ではなく、「確率が低い選択」になるという意味)になってしまう。このことに対する納得のいかなさが、主観に(1)のようなミスリードを起こさせると言える。司会者の行為が、あたかも因果関係における順序を逆走するかのようにして、「わたしの選択」という能動的行為の意味を(事後的に予め)無化させてしまう。このような、時間を遡って、行為を起こすより前に行為の意味を無化させてしまう、世界の外から作用するような「司会者」の力は、どこかリンチ的世界に作用する陰謀論的力に似ているのではないか。
(とはいえ、「司会者」は実際には、当たりの位置という情報をもつ以外、特別な――魔法のような――力は何ももっていない。)
(5)わたしは、「司会者」の導きに従うことで、確実により優位な位置(必ず「当たり」とは言えないとしても)につくことができる。しかしそれは「わたしの選択」という行為を無意味にするということである。わたしが最初に何を選択しようと関係なく、「司会者」の介入によってそれは必ず変更させられてしまう。わたしは「司会者」のおかげで有利な立場に立てるのだが、それは、わたしの主観にとって「わたしの能動性」が無意味になることと引き換えにである。
(この時わたしは、「確率」を越えた「わたしの直観」を信じることが本当に可能なのか。)
(6)この、回答者と司会者の関係は、たとえば『マルホランド・ドライブ』の映画監督とカウボーイの関係に似ているように思われる。