●昨日観た『ハプニング』(M・ナイト・シャマラン)で、最初に主人公の奥さんが出てきたカットの水色にキラッと光る瞳には驚いて、もうそれだけでこの映画はすげえと思ったのだった。その瞳のイメージが、この映画の面白さ、気味の悪さをはっきりと示しているかのようだ。例えば、ジョン・カーペンターの『光る眼』という映画があるのだが、そこでの子供たちの光る眼とプラチナ色の髪は、子供たちが異質であることを示す記号でしかなくて、そのイメージそれ自体としてドキッとするような質をもっているわけではない。物語上で、彼らが宇宙人の子供であることを視覚的に示しているに過ぎない。しかし『ハプニング』では、主人公の奥さんは多少不安定な感じはあるものの普通の人である。ここで、水色の瞳の(視線の在処、そしてその奥にある感情の)捉え難さは、彼女の存在論的な不安定さと、もう一方で、夫の側が感じる妻に対する測り難さを表現しているとも、一応は言える。しかし、この水色の瞳(眼差し)のイメージは、そのような、物語的、心理的表現をはみ出るような、それを見るものをもっと根本的な不安に誘うような、イメージそれ自体としての質をもつ。そしてその質が、映画のなかに明確な着地点をもたないところが面白いのだと思う。
また(あくまで)便宜上『光る眼』と比較するのだが、『光る眼』の物語は、一種のアブダクション物の変形として、かなり「電波」な傾向を強くもつものだ。しかしそこはカーベンターだから、そのような物語を、「電波」な、危ないにおいを感じさせることなく、あくまで健康的なアメリカ映画として、ジャンル物の感性へときれいに着地させる。一方、『ハプニング』を構成するアイデアの一つ一つは、これといって目新しいものではなく、おそらく、映画を沢山観ているマニアであれば、誰でも思いつく程度のものなのではないだろうか。いわゆる、元ネタ探しのようなことをするのも、そんなに困難ではないだろう。しかし、それを構成するピースの一つ一つはありふれているとしても、結果としてそれらを組み合わせて出来たもの(作品として機能し、作動するもの)が、人が「映画」として安心して受け入れ、納得するようなものから大きくずれてしまっている。つまり、個々のピースやイメージが、ちゃんと着地すべきところに着地しない。だから、物語は完結し、解決されたとしても、そのイメージの感触そのものはいつまでも手元に残る。例えば、ぼくは『サイン』の緑色の宇宙人の元ネタは、『オズの魔法使い』の魔女なんじゃないかと思っているのだが(緑色だし、水に弱いし)、しかし、もしそうだとしても、元ネタが分かったからといって、あの異様なイメージや唐突な出現の仕方の訳の分からなさ、その気味の悪い感触が解決されるということはない。「○○は××からの引用だよ」ということと(そんなのたんなる「うんちく」でしかない)、その「○○」というイメージが作品のなかでどう機能するのか(あるいは、機能からはみ出るのか)、ということとはまったく別のことなのだ。『ハプニング』の主人公の奥さんの水色の瞳は、『サイン』で唐突にあらわれる緑色の宇宙人と同じくらいに強い衝撃をもつイメージで、作品内部でも解決されないまま浮遊している。しかし、『サイン』の宇宙人はまさに投げっぱなしのイメージだったのだと思うのだが(まあ、そこが面白いのだけど)、『ハプニング』の水色の瞳は、作品から浮遊しつつも、それだけでなく、その浮遊によってこそ、作品全体のあり様と密接に関係している、というような不思議なイメージだと思うのだ。