●『メリー・ポピンズ』をDVDで。ロバート・スティーブンスの映画というより、ディズニー・プロダクションの映画。なんというのか、人工甘味料と人工着色料がたっぷりのお菓子の家に閉じ込められた子供たちのみる悪夢のようなイメージが圧倒的。この悪夢から抜け出せないと、それはおそらくリンチの映画のような世界に育ってゆくのではないだろうか(ハトの餌を売る老婆のイメージなど、いかにもリンチ的ではないだろうか、あと、子供たちの「顔」とか)。本当は、『メリー・ポピンズ』との関連ではリンチではなく、ティム・バートンとかの名前が出て来るべきなのだろうけど、例えば『チャーリーとチョコレート工場』とかは、『メリー・ポピンズ』を観てしまうとあまりにマトモ過ぎるように思えてしまう(子供たちの「顔」の選び方からしてイマイチだと思う)。あと、例えば、シュヴァンクマイエルがいかにグロテスクなイメージをつみ重ねようとも、そこには、クラフト的な手作りの感触があり、あるいは日常的ディテールとの繋がりの感触があり、それが人を安心させるところがあるのだが、この世界にはそれがない。(それが悪いと言っているのではなく、そこが違うと言っているだけ。)
このイメージのとんでもなさは、技術と気合いとか半端ではない熱量で注ぎ込まれていることも勿論なのだが、やはり「お金」の力が大きいように思う。何にどの程度使うのが適当かというような、お金に関するバランス感覚が失効してしまうくらいの膨大なお金が前提とされてはじめて、このような、濃淡もなく、根本的な方向感覚が失調したようなイメージの連鎖の世界があらわれるのではないだろうか。豊かさの飽和の果てにしか出てこないようなイメージ。気が狂ってコントロールを失った過剰さが、「子供向け」の映画の「型」のなかに無理矢理押し込められることで生じる歪み。(この映画がつくられた60年代前半のハリウッドは、テレビに対抗するためにやたらと大規模な大作を連発して、自らのシムテムの崩壊の危機をまねいていた。)
単純に楽しいことは確かなのだが、それを楽しんでしまうことの裏に、常にどこかしらやましさや後ろ暗さが貼り付いてしまうような感じ。いっさいの影が排除されていることによって、返ってその裏側の影が強く意識されてしまうような感触がある。(ブラックなネタみたいなのもチラチラ見え隠れするのだが、実際に表に出て来るそれらのものは切れ味も鋭くなくて、どうでもよいものだ。)
●笑い過ぎて空中浮遊してしまうおっさんのシーンがすごく好きだ。ぼくが観た事のある、映画の空中浮遊のシーンでもっとも素晴らしい。ぼく自身も普段しょっちゅう、あんな感じで宙に浮いているような気がする。(ただ、義足のジョークのどこがそんなに面白いのかはよく分からないけど。)あと、子供たちが煙突の下から「スパッ」と吸い込まれて、屋根の上に「パッ」と出て来るシーンの、「スパッ、パッ」という呼吸がとてもいい。この二つのシーンは、裏側の暗さや歪みとは関係なく、ただ幸福だ。