07/10/11

恵比寿ガーデンシネマで、デヴィッド・リンチインランド・エンパイア』。二度目。この映画は、前半すごく面白いのだが、中盤になって、要素を詰め込み過ぎて散漫になるのと、いくらなんでもどアップばかりで押しまくる演出が単調に思えて来て、やや退屈になってくる。(ローラ・ダーンの顔だけは終始素晴らしい。それにしてもこの映画では、リンチ自身がカメラを操作しているのだろうか。第三者としてカメラマンが介在すると、ここまで妙な空間の歪みかたはなかなかしないのではないか。)そして、セックスと不信と暴力の気配が濃厚に充満する暗くて狭い廊下を三時間にわたって延々と彷徨っていたようなこの映画が、それを抜け出し、唐突な和解のシーンで幕を閉じ、天国的なクレジットのシーンになると、はんの少しだけ、このまま死んでもいいかも、という気持ちになる。そんな気持ちは、映画館を出ると消えてしまっているのだが。
この映画は、死んだ息子と殺した夫に、天国で再会し和解してハッピー、みたいな終わり方をする。『イレイザー・ヘッド』には、「天国ではすべてうまくゆく」という曲が流れるのだが、この映画もそんな感じ(つまり、「天国」でしかうまくはゆかない)で終わる。この映画で、他の要素との関連がみられない、孤立した、浮遊した要素がおそらく二つある。一つは、二度出て来る後ろ姿のみが示される太った女性で、もう一つがローラ・ダーンによって唐突に「息子が死んでから生きる気力がない」と口にされる「死んだ息子」の存在だ。この映画は、誰かが誰かから見られ(誰かが誰かを監視し)、誰かが誰かから裏切られ(誰かが誰かを裏切り)、誰かが誰かに暴力をふるい(誰かが誰かから暴力を受け)、そして誰かが誰かを殺す(誰かが誰かから殺される)という映画で、しかし、その受動的な誰かと能動的な誰かとが(つまり、殺すのも殺されるのも)結局は同一人物だという、歪んで折り返された構造をもつ空間のなかで進行する。(ローラ・ダーンを殺すドライバーは、もともと彼女が持っていたものだ。)極端に言えば、この映画に出て来る女性はすべて同一人物であり、男性はすべて(夫の)影であろう。そしてその(個体化以前にある、誰でもあるような「ある女」として)全ての女性の存在を引き受け、束ねているのが、顔のない、後ろ姿のみが示される太った女性のイメージであろう。(単純に言えば、「死」と「暴力」以外のこと全ては後ろ姿の女の頭のなかの出来事である。)執拗にアップで捉えられつづけるローラ・ダーンが、その執拗さにおいてほとんど顔の同一性が解体され、純粋な情動-表現となることによって、顔のない後ろ姿の女性と表裏一体として重なり合う。ローラ・ダーンが、自分で自分を見るふたつのシーンが、この映画の受動と能動とが共に(分裂した)同一の人物においてなされていることを示すだろうし、ラスト近くで、彼女が男を銃で撃つと、その男の顔が彼女自身の(歪んで加工された)顔に変わるシーンが、この映画そのものである誰でもない誰か(ある女)の死をあらわす。(ローラ・ダーンは二度死ぬのだが、ここではローラ・ダーンだけでなく「ある女」が死ぬ。あるいは、この男は「夫からの暴力」の「徴候」を表すという意味では、このシーンは夫の殺害でもあろう。)この世界の内部にいて、受動と能動に関わるローラ・ダーンと、そのような自分自身を外側からテレビで眺めつつ涙する女とが、「死」によって重なり合う(「ある女」の死が完成する)。そして、死後の世界で、自分に暴力をふるいつづけた(女に殺された)夫と、先に死んでしまった息子が、彼女をあたたかく迎え入れ、受け入れるところで映画は終わる。女が夫を殺したということは、ローラ・ダーンが眼鏡の男に向かって喋りつづけるシーンが、警察の取調室を連想させることからも察することが出来る。
だからこの映画の顔の無い後ろ姿の女性のイメージは、『マルホランド・ドライブ』の顔のないベッドの上の死体とほぼ同じ役割をもつ。そして、ローラ・ダーンのまわりに集う娼婦たちのイメージは、暴力を受けた「ある女」の存在が、過去に幾度も反復されていたことのあらわれ(冒頭の顔のない娼婦と客、そして反復されるレコードのイメージ)であり、そしてまた、天使の代替的表現でもあるだろう。だから、ラストのクレジットの場面は、ローラ・ダーンが天使たちに囲まれて天にのぼってゆくという、まるで『フランダースの犬』のラストのようなシーンなのだろう。
●映画における顔のクローズアップとは、おそらく映画以前にはあり得なかった何かなのだ。スクリーンいっぱいにまで拡張された巨大な人の顔は、顔でありつつも、自然な状態で人が認識する「顔」とはまったく別ものになっている。それは、ごく親しい人の顔を間近から見つめるという事柄とは、根本的にことなる体験を見るものに強いる。ぼくはそれを、八十年代のゴダールの映画を見て知った。しかし、ゴダールの顔が、顔をほとんど風景のようなもの(光を反射する起伏と肌理のある皮膚)として捉えているのに対し、リンチの顔は、人の同一性の記号でもある「顔」が今にも崩壊して皮膚に還元されてしまうギリギリのもの(崩壊の徴候を示すが崩壊し切ってはいない)であり、同時に、同一性から切り離された純粋に情動的なものの強さとそのバリエーションとを示すものでもある。つまり、顔は「顔(他者の同一性の記号)」であることを解体されるのだが、それが他者(「誰か」)の存在の濃厚な徴であることは保持されている。