07/10/31

恵比寿ガーデンシネマで『インランド・エンパイア』(デヴィッド・リンチ)、三回目。もうすぐ終わってしまうのでもう一度観に出かけた。(千円で観られる日だったし。)一番前の右の端の方の席で、スクリーンを近い位置の右斜め下から見上げるような感じで観た。顔が歪むほどのクローズアップなど、対象とカメラとの適切な距離を放棄したかのような画面がつづくこの映画は、フレーム全体がきっちりと捉えられる位置よりも、フレームが歪むくらいの近い位置で観た方が良いと思ったので。カメラの先が鼻にぶつかるんじゃないかと思う程のどアップには、「近いよ」とのけぞってしまう。思ったよりも細かいところまできちんとお話の辻褄が合っていた。
一回目も二回目もそう思ったのだが、やはり三回目に観ても、ラストのエンドクレジットの場面は素晴らしい。この場面それ自体が独立して素晴らしいというよりも、三時間もの間、暗くて狭い迷路を抜けて来た果てにこの場面が訪れるというのが素晴らしいのだ。この場面を観るために、三時間の闇を抜けてきたかのようだ。生きていて、正気でいる限り、薬物にでも頼らなければ、こんなに「幸福」な気持ちになることはないのじゃないかとさえ思われるほどだ。(『ワイルド・アット・ハート』のラストの「ラブ・ミー・テンダー」は、まだアイロニカルなものともとれてしまうような弱さがあった。)残念ながら、その幸福は、クレジットの場面の時間しか持続せず、会場が明るくなると消えてしまうのだけど。(せめてその余韻が、恵比寿駅まで歩く間くらいはつづいたらいいのに。)
昨日だったか一昨日だったか、テレビをだらだら観ていたら、ある女優が、元サッカー選手との交際の噂について聞かれて、「日本にたまにしか帰ってこない人と恋愛できるわけないじゃないですか」と答えていた。愛する対象が目の前にいること、その直接的な身体的現前(接触)は、「愛」にとってやはりとても重要なことなのだ。これはとても健康的なことだ。『ワイルド・アット・ハート』での、ニコラス・ケイジローラ・ダーンとの性交の描写は、そのような、愛の対象が現前することの重要性を示していた。しかし人はおそらく、何かとりかえしのつかないものを喪失するという経験を経ると、それだけでは足りなくなる。(フロイト-ラカン的に言えば、そもそも人は、生まれた時から、あらかじめ世界を喪失しているのだが。)人はしばしば、そこに居ない誰かを頭のなかでつくりだして、それを頭の外の空間に投影しさえする。(例えば『惑星ソラリス』はそういう映画だろう。)その時、それをつくりだしてしまう頭の中の仕組み(組成)の現実性は、頭の外にある、そんな奴は本当は実在しないという現実性と同じくらいに、(人間にとっては)「現実」であろう。そしてそれは、現実であるだけでなく、必然でもあろう。(『インランド・エンパイア』はまさに、「頭のなかの仕組み」の現実性や必然性に関わる映画だろう。)
フロイトは「文化への不満」で、人生の目的は結局のところ幸福(快感)を求めることで、人にとって最も大きな幸福(快感)は性的な快感であるとする。しかし、性的な快感に依存して生きることは生をきわめて不安定なものにする(愛する人はしばしば容易に失われる)から、より安定し長く持続し得る幸福の対象を、その代替物としてたてなければならないとする。(つまり、人間にとってのあらゆる「価値あるもの」は、性的な幸福-快感の代替物である、と。)人間の幸福への欲望は必ず挫折-失望する運命にあるのだが、(その代替物として機能する)「文化」は、その挫折-失望を、より多くの人に対して、より小さいものとするための装置であり、それを別の方向へのポジティブな力とする装置でもある、と。文化は、失望をいかに洗練した形で飼い馴らすのかということに関わる。そもそも人の生の形は、それぞれがその失望を、どのような別の形に書き換え、昇華することが出来るのかということによって決まる。一昨日の日記で触れた『宗方姉妹』の木暮実千代は、上原謙と決して結ばれることはないという失望を、死んだ夫の視線と共に生きるという積極的な形に書き換えて、そこで生きようとする。だがそれはもはや、愛の対象=直接的な身体的現前という、動物的な健康からは遠く離れてしまっている。
しかし『インランド・エンパイア』は、そのような、失望の昇華という意味での文化的洗練とは異なるものだ。同時に、その異様なクローズアップは、(動物的な次元での)直接的な身体の現前とは異なる。そのイメージはこちらに覆いかぶさってきて、こちらを包み込むかのような迫って来るのだが、決して触れること(手応えを感じること)は出来ず、「愛の対象」として安定した像を結ばない。それはイメージそのものがそのまま暴力(の気配)であるかのようなイメージなのだ。『インランド・エンパイア』は、「頭のなかの仕組み」の現実性にまつわる映画なのだが、その「頭の中の現実性」は常に、「頭の外の現実」に取り囲まれ、晒され、攻められている。(そもそも、「頭の中の現実性」は、「頭の外の現実」の一部なのだ。)我々の持ち得るイメージや物語は、「頭の中の現実性」の外へは出られないのだとしても、我々が「生きている」場所は「頭の外の現実」であり、同時に、「頭の中の現実性」と「頭の外の現実」とのギャップ(軋轢)の場所なのだ。おそらく『インランド・エンパイア』とは、そういう映画なのだ。だとしたら、そのギャップが解決し軋轢が消失してしまうかのような、あの幸福に満ちたラストは、やはり死の場所なのだろうと思う。