08/05/02

早稲田松竹に『インランド・エンパイア』(デイヴッド・リンチ)を観に行った。四回目。最初は立川で、二回目、三回目は恵比寿で、四回目は早稲田で。ぼくは、映画をビデオやDVDで観ることにあまり躊躇はないのだが、この作品だけは、DVDでは観る気がしない。実は、一度DVDをレンタルしてきたことがあるのだが、どうしてもDVDでは観る気にならなくて、そのまま返してしまった。映画をDVDで観ることに躊躇しないのに、これだけはDVDでは観る気がしないということは、ぼくはこの作品をいわゆる「映画」とは違うなにものかとして捉えているのかもしれない。映画だろうと映画ではなかろうと、この作品が凄いものであることにはかわりはなくて、そのことを今日もまた改めて身をもって確認した。否応もなく強制的に浴びせかけられる、分割不能な塊としての三時間は、DVDのように、途中で止めることが可能な(実際には止めなかったとしても)媒体では経験不能なのだった。観る前に相当な覚悟がいるのだが、その覚悟まで含めて、この作品を観るという経験なのだ。映画が、視覚(パースペクティブ)や、時間、空間を越え出るためには、ここまでやらなくてはならないのだった。粘膜を、目の粗いやすりで擦られつづけるような三時間。とはいえ、さすがに四回目なので、全体の流れや雰囲気を前もって知っているため、多少の余裕はできて、前よりもより細かく細部の感触のひとつひとつを確かめながら観ることが出来た。(最初の一時間くらいは、けっこう笑っていた。)この映画を観る時、どうしても途中で頭が朦朧とするというか、疲労で集中が途切れてしまう瞬間があるのだけど、今回は三時間通して、割合とクリアーな状態を保つことが出来た。早稲田松竹は、いままでこの映画を観た映画館でいちばんスクリーンが小さいので、最前列で観てもフレーム全体が自然に目に入るということもあるのかもしれない。(それにしてもこの映画の顔への近さは強烈過ぎると改めて思った。ただ「近い」というだけのことが、こんなにも暴力的なのか。)
この映画では、こけおどし的な、暴力的な音が溢れているのだが、なかでも特に、電話の着信音が際立って暴力的なのだと感じる。電話のベルが響いた後では、何故か、電話が鳴ることを一瞬前から予感によって察知していたという気持ちになるのだが、それは、その音のあまりに暴力的な唐突さに対する防衛として、音が鳴った後に、クッションとして事後的に偽の記憶が過去にずれ込んで生成されるのだろうと思う。つまりそこで一瞬、時間が逆回りするのだ。そして、そのようなことを経験するということが、この映画を観るということなのだ。
「ロコモーション」や「シナーマン」を、ぼくは今後一生、死ぬまで、この映画と切り離して聴くことは出来ないのだ。それは多分ぼくだけではなく、世界中で『インランド・エンパイア』を観た人の多くがそうなはずで、それは、ミュージシャンにとってというか、曲それ自体にとって、かなり迷惑な話なのだと思う。それにしても、この映画のラストのダンスシーンは素晴らしくて、四回目だというのに、そのあまりの幸福さに、失禁するかのように泣いてしまうのだった。