07/12/12

●リンチ論のつづきを書く。以前にこの日記で書いたことが、メモがわりになる。青木淳悟論は、この日記に書き付けた感想などはまったく参照せずに、一から、あらためて小説を読み直すことではじめたのだけど(ぼくの持っている青木淳悟の本は、意味不明の記号やイラストなども含め、様々な書き込みがびっしりされている)、リンチについては、自分が書きつけた印象や感想などを頼りにして書いてゆくことになる。勿論、必要な部分をDVDで参照したりはするし、途中でもう一度、『インランド・エンパイア』を観に行くかもしれないけど。リンチの映画を観るときの一つの罠として、説話的な構造分析をついつい一生懸命やってしまって、その次元でのつじつま合わせに終始してしまうという危険があると思う。(実際にリンチは、かなり律儀につじつまを合わせている。)もう一方で、ごく表面的な意味での奇異なイメージの連鎖の次元だけで、そのリンチっぽさを味わって済ませてしまうことも退屈だ。そうではない、別の構造を見出すためには、細かい分析に入って行く手前で捉えられる「感触」という次元を、どうやってちゃんと維持出来るかということが重要であるように思う。そのためには、作品を観た直後の、未整理な感想は役に立つと思われる。というか、それしか頼りに出来ない。
●ちょっと放置してあった『コスモス』(ゴンブロヴィッチ)のつづきを読む。まだ終わってない。途中、猫の死体が出て来るあたりで、ちょっと退屈になったのだけど、馬車で遠出するところで、またぐっと面白くなった。でも、「おーっ、すげーっ」という風に前のめりになって入り込む感じではないけど。微妙に、前傾姿勢になったり、やや引いたりしつつ、探り探りに読み進める感じ。決して突き抜けることなく、ぐちぐちと踏みとどまるこの「粘り」を、どのように捉えたらよいのか迷いつつ。