安藤尋『ココロとカラダ』と、『すいか』

安藤尋『ココロとカラダ』をDVDで。こういう映画はどちらかというと苦手なのだが、人から薦められたので観てみた。繰り返すが、こういう映画はあまり好きではないし、実のところよく分らないところも多いのだが、しかしこの作品には引き込まれた。これは傑作と言ってよいのではないかと思う。
女性の(女優の)身体を即物的な次元で「痛めつける」ような描写を重ねることで、社会的な関係性とは切り離されたところでの、二人の女性の閉じた関係や実存的な寄る辺無さを浮かび上がらせる。最初の方の展開はちょっとまどろっこしい感じなのだが、この展開のかったるさは、この映画の基盤をかたちづくるのに必要な時間なのかも知れない。途中の、女の子がもう一人の女の子に階段から突き落とされるシーンのあたりから、映画に異様な、どす黒い輝きがあらわれはじめる。階段から突き落とされた女の子は、突き落とした女の子との関係をつなぎ止めるために売春をはじめ、そのはじめての客から肛門セックスを強要されるのだが、そのシーンがほとんど純粋な「身体的受苦」として描かれ、女の子はその「身体的な苦痛」そのものをもう一人の女の子に対して「捧げる」ような形で、二人の関係は深まり、深まるとともに狭いところに入り込んで行く。二人の女の子は、自分の身体をきわめて即物的に、そして粗雑に扱い、あくまでドライに、相手の、そして自分の身体を痛めつけ、しかしその身体に対するそっけなさと対照的に、二人の関係は次第に癒着的、相互依存的になってゆき、二人以外の他者をそこから閉め出してゆく。一人の女の子が、生理がはじまってしまった(だから客をとれない)と言うと、もう一人が海綿を渡して、それを千切って詰めておけば(客には)分らないから、と言う。女の子は、やってみる、と言って風呂場に消えるのだが上手くゆかず、もう一人の女の子がそれを手伝う。このシーンでも身体は即物的に、そして粗雑に扱われ、だからここでは同性愛的な官能性はまったく生じず(この映画では「カラダ」は官能性を剥奪されている)、この、即物的な身体を媒介とした痛々しいまでのそっけなさのみが、二人の間にある「親密さ」をつくりあげる。(自身の身体に対するある種の執着のようなものがなければ、他者の身体に対する欲望は成り立たないのではないだろうか。)この二人の女の子にとって身体は徹底して受苦の場所であり、その身体的な苦痛を通してのみ他者と関係し得るかのようなのだ。
それにしても、映画監督っていうのはなんてひどい人種なのだとあきれるくらいに、この映画では二人の女優の身体はえげつなく痛めつけられる。安藤尋はピンク映画出身で、おそらくピンク映画ではほとんど演技の経験もないような女優を使わざるを得ないような局面が多々あり、しかも演技を練り上げるような時間の余裕も許されず、しかし女優にはカメラの前で裸になれるくらいの根性はある、という状況で、最も効率的に「力のあるパフォーマンス」を引き出せるのが、即物的に身体的な次元で追いつめる、ということなのではないだろうかと想像できる。おそらく、ピンク映画の歴史とともにそのようなやり方は練り上げられ、洗練されてきたのではないだろうか。そしてもう一つ、この映画がおそらくビデオによって撮られていることも重要であるように思う。たんに予算の問題だけでなく、「カメラに取り付けられたロールにあとどれくらいのフィッルムが残っているのか」ということをほとんど気にせずカメラを(いつまでも)回し続けることが出来ることにによてこそ、張りつめているようでいて、だらだらしているようでもあるような、この映画の不思議なリズムが可能になったのではないだろうか。
映画の終盤に、女の子の一人が、「これからどこに行くのか分らないけど、どこに行っても平気だよ」というような意味の台詞を喋るクローズアップのショットには、(まあ、こういう映画では、こういうショットはよくあるものだとはいえ)冷静ではいられない程心を動かされるものがあった。最後に子供が出て来るのも、いかにもありがちではあるが、しかしこの映画ではとても説得力がある。しかし、ラストシーンにはちょっと納得出来ない。最後に「そこ」に戻ってゆく必要があるのだろうか。全ての根拠が「そこ」にあるかのように戻ってゆくのではなくて、この先どうなってしまうのかまったく分らない、という寄る辺無い不安定さに開かれたまま終わった方がよかったのではないか、と思った。
●あと、DVDで『すいか』の最初の三話も観た。こういうドラマを観て、だらしなく号泣してしまう自分に、「お前、そんなに癒されたいのか」と突っ込みを入れたくなる。(というか、「結局、お前はそっち系か」みたいな。)それはともかく、このドラマの小泉今日子は素晴らしいと思う。ある時期、小泉今日子は「おしゃれな芸能人」の代表みたいな位置にいたのだけど、そんなの絶対嘘で(だって根はヤンキーなんだし)、実際は「こういう人」なのに違いない、と確信してしまうくらいに素晴らしい。(『風花』よりもこっちの方がいいくらいだ。)小泉今日子の役は、「ハピネス三茶」にあつまってくるような人たちとは根本的に異質な人物なのだが、このような人物が、たとえ点景としてでも描かれていることが、このドラマにたんなる「癒し系のメルヘン」以上の厚みを与えでいると思う。三話の最後に出て来る小泉今日子の花咲か爺さん姿の「写真」とか、本当に素晴らしいのだった。