吾妻ひでお『うつうつひでお日記』

吾妻ひでおうつうつひでお日記』。ぼくには『失踪日記』よりも面白かった。それにしても、大島弓子とかもそうだけど、枯れた(という言い方は失礼だろうか)漫画家が描く身辺雑記風の作品は、なぜこんなに魅力的なのだろうか。特にこの作品は本当にただの「日記」で、『失踪日記』よりもずっと作品化への「意思」が低い。気に入ったマンガをちょっと模写してみた絵なんかが平気で出てきてしまうような力の抜けっぷり(しかも、当人も書いてるようにあまり上手ではない)には、「境地」としか言いようがない味がある。日記という形式そのものが面白いというのもあると思う。『失踪日記』の場合は、その執筆は失踪から帰還した後になされているはずで、つまり一応は「結末」が見えた時点で描かれている。(それに、『失踪日記』には「三部作」という意識もあるみたいだし。)しかし『うつうつひでお日記』は、まさに日々書かれている日記であって、収束点はなく、テーマもなく、どこにたどり着くでもなく、たんにだらだら描き継がれ、描き継がれるという行為のみに支えられ、それ以上書かなくなったところが「終わり」であり、そのとりとめのなさこそが面白いのだと思う(そのとりとめのなさこそが、描かれている「内容」と一致しているのだと思う)。勿論、吾妻ひでおだって職業作家だから、描きつづけているこの作品を「本」にするには、最低限このくらいの量は必要だろうというような計算がないはずはないのだが、しかしそれはあくまで部分の集積としての量であって、その「量」から逆算されて、部分が描かれるわけではないだろう。(結果として、『失踪日記』発売前まで、という着地点が用意されてはいるけど、実際に「日記」が描かれている時に、その収束点が意識されていたわけではなく、それはただ日々描かれつづけていただけだろう。もし『失踪日記』が出版されなければ、あるいは、出版されたとしてもたいして話題にもならなければ、この「日記」の着地点は、まったく違ったものであったかもしれないのだ。作品化への「意思」が低い、というのはそういう意味だ。)
この作品のなかでの吾妻ひでおは、仕事がほとんどなくて貧乏でヒマだから、図書館へ足しげく通って、かなりの量の本を読んでいる(カバーの裏に読んだ本の一覧が出てるけど、すごい読書量で、これだけの本を「仕事」としてではなく純粋に楽しみとして読んでる人は本当に稀だと思う)のだが、どうしても、返却期限のある図書館の本を先に読んでしまって、買った本や人からもらった本は後回しにしてしまう、ということを書いていて、その後、《二年前に買った岡崎二郎の「アフター0」もまだ読んでいない/20年前に買ったヴォネガットの「タイタンの妖女」もまだ未読です》と書いている。で、何が言いたいのかというと、実はぼくの部屋にも、25年くらい前に買った『タイタンの妖女』があるのだけど、ぼくも実はまだ未読です。ヴォネガットとかディックとかって、今読んでいる本の次の次くらいに読もう、と、いつも思っていて(だから常に何冊かはすぐ手に取れる場所にあるのだけど)、でも、今読んでいる本を読み終えると、また、次の次に繰り越されて、なかなか読めないのだった。