●『夜戦と永遠』の第二部は、父について、というか「父の機能」についての話で、読みながら何度も、樫村晴香楳図かずお論と、磯崎憲一郎の小説のことを思い出す。思い出すだけではなく、「Quid?」や『肝心の子供』、『眼と太陽』を実際に読み返しては考え込んでしまい、また『夜戦と永遠』に戻っても、同じところを行きつ戻りつして、読みながらまた全然別なことを考えていたりするので、本当に少しずつしかすすまない。でも、その行き戻り自体が、すごく面白い。樫村さんや磯崎さんは、実際にも「父」なわけだけど、佐々木さんはどうなのだろうか、とか、どうでもいいことも考えたりする。
●『そこにあるあいだ』(川部良太)をDVDで。二回目。前にも書いたけど、『家族のいる景色』(2006年)『ここにいることの記憶』(2007年)とつづけてこの映画作家の作品を観て、最新作の『そこにあるあいだ』(2009年)を観ると、その飛躍の大きさに驚かされる。
『家族のいる景色』『ここにいることの記憶』は、擬似的なドキュメンタリーというか、ドキュメンタリーのなかに虚構の次元を紛れ込ませたような作品で、それ自体とても面白いものである。どちらも、不在という重力によって組織された映像によって成立している。『家族のいる景色』では、父や祖母、自身の暮らす付近の風景、そして作家自身を捉える具体的な眼差しに確かな手触りが感じられる一方で、突然失踪した母への疑問(謎)が生み出すある種のメランコリックな雰囲気が全編を染め、それが断片的な映像に一種のまとまりを与えているかのようだ。だから、例えば村上春樹的な(喪失感を中心にすえる)語りになってしまいかねない危険もみえなくはない。解体されることが決まった団地とそこに住む人々を記録する映像に、カワベリョウタという作家と同名の少年の虚構の失踪事件を紛れ込ませる『ここにいることの記憶』は、失踪した少年というフィクションが、滅びつつある空間のなかにこだまのように響く。この団地に住む人の多くは年配の人であり、実際に子供の姿はあまりみられない(この映画に登場する子供は、よそから遊びにきている)。そのような空間が、子供の失踪というフィクションを呼び寄せる。『家族のいる景色』を観るかぎり、おそらく作家自身も団地(撮影されている団地であるかどうかまでは分からないが)で育った人だと思われ、団地を記録する作家の眼差しは、今、目の前にあるにも関わらず、既に(先取り的に)過去になってしまった対象を撮影するかのような愛着がこもった懐古的調子を帯びる。だが、それは撮影している段階ではカメラの前に実在していて、それが丁寧に撮影されているから、「不在をめぐることの重力」からは、かろうじて逃れているように思われる。そういえば、『そこにあるあいだ』では、既に解体された、もともと団地であったとされる更地が何度も写されていた。
『そこにあるあいだ』では、二組の兄弟が、一組の兄弟によって演じられる(クレジットに刀祢平喬、刀祢平知也と出ているので、おそらく兄弟だと思われる)。一方は夏の熱い時期に撮影され、もう一方は寒い時期(家にあるカレンダーによると11月、テレビで土石流のニュースが頻繁に流れているので、おそらく雲南省で災害のあった2008年11月のはじめ頃だと思われる)に撮影されている。一方では、兄はヒゲをはやし眼鏡をかけているが、弟に眼鏡はない。もう一方では、兄には眼鏡もヒゲもなく、弟が眼鏡をかけている。この二組の兄弟は、なんとなく似ているとは感じるものの、一組の兄弟によって演じ分けられているとはなかなか確信出来ず、クレジットに名前が二つしかないことで、きっと同じ人なのだとようやく推測できる。ここでは、映像=視覚が捉える「類似」が、必ずしも同一性を確信させるものではないこと、イメージを見ることで得られる同一性の判断の怪しさが示されてもいるだろう。
二組の兄弟は、違うのに似ている、あるいは、似ているのに同じだと確信できない。まず、このことがこの映画の主題の一つとなっている。一方の兄弟は、父を幼いころに亡くし、今は、山梨に母を残し、二人で東京に住んでいる。その母が再婚するというので、二人で車に乗って山梨の母の再婚相手の家へ向かっている。もう一方の兄弟は、幼いころに両親が離婚し、兄は父と、弟は母と暮らすので離別し、祖母の具合が悪いというので、弟が父と兄の暮らす家へ12年ぶりで戻ってくる。このような二つのシチュエーションは、映画の進行とともに少しずつ明らかになってゆくので、最初は、この二組の兄弟の関係がよくわからない。この二組の兄弟は似ているし、撮影されている時期も異なるので、最初は、二組の兄弟が描かれているのか、それとも一組の兄弟の異なる二つの時間が交互に描かれているのか、よく分からない。実際、一方の兄弟の会話が、もう一方の兄弟の映像に被されたり、一方の兄弟の会話に出て来た「赤いミニカー」が、もう一方の兄弟の方で映像としてあらわれたりもする。観ているうちにだんだんと、この二組の兄弟が別々なのだと自然に呑み込めて来る。しかし、シチュエーションとして別々だと分かるにしたがって、逆に、イメージとしての類似や、意図的な重ねあわせの方がはっきりと見えてくるようになる。
この映画には二つの地図が示される。一方は、東京の調布周辺で、もう一方は山梨の韮崎周辺の地図だ。おそらくこれはそのまま、この映画が撮影された地区を差しているのだろう。一方の兄弟の、兄と父の住む家は調布にあり、もう一方の兄弟の、母の実家があり、再婚相手の家があるのは山梨の韮崎周辺で、映画によって見ることの出来る風景も、そこのものだと思われる。『家族のいる景色』を観ていれば、作家自身が調布付近に住んでいることを知っているし、母の不在という主題も共通することから、『そこにあるあいだ』で描かれる物語がある程度作家の伝記的事実を反映しているであろうことが推測され、つまり、山梨という土地も、作家と何かしらの関わりがあるだろうということが推測される。ただ、『家族のいる景色』で作家と父が住むのはマンションであるが、『そこにあるあいだ』で兄と父(父の役は作家の父が演じている)が住む家は一軒家なので、作家が必ずしもそのまま「自分」のことを語っているというわけではないだろう。つまり、この映画では、非常に繊細な手つきで、伝記的な事実の反映と、虚構として作り込みが織り交ぜられているのだと思われる。勿論、それは観客には関係のないことであるのだが、そこにこそ、作家の、作品と現実との関係のさせ方、その距離感、実在する風景のなかに虚構の人物(しかしそれは実在する俳優だ)を配置するときの態度等があらわれていると思う。
一組の実際の兄弟に、二組の(とても似ているが微妙に違う)兄弟を演じ分けさせ、しかもその物語内容は、おそらく自身の伝記的事実を反映させつつも、微妙にそこから距離をとり、それをズラしたもので、そのような物語を、おそらく実際に作家と密接な関係のある土地-風景を舞台に撮影すること。しかも、その微妙にズラした二組の兄弟は、映像による眼に見える「類似」によって、その距離が危うくなって重なってしまうかのような瞬間もある。イメージによる類似は、同一性を保証するものではない(二組の兄弟が一組によって演じられていることは、クレジットの「文字」によってしか確信されない)が、しかし差異を帳消しにしかねない危うさ(この二組はとても似ているので観ているとどうしても混同してしまう)もある。このような「類似」のもつあやふやな怪しさを、とても丁寧に聞き取り、寄り合わせ、組み立ててゆくこと。このようなやり方がそのまま、この作家が、作品と現実との間にうちたてようとしている関係なのではないかと思われる(それは人物との関係だけでなく、風景との関係にもみられる)。というか、作品と現実という別々のものが事前にあるのではなく、作品をつくるという行為のなかにある「感触」のあり様によって、事後的に、ある「現実」から新たに生み出された「作品」という風に切り分け=関係が可能になるのだ。
『そこにあるあいだ』で、山梨に向かう兄弟は、母にもその再婚相手にも会えず(会う手前で映画は終る)、もう一方の兄弟の物語では、次の日に遅れてやってくると言っていた母は結局は現れず、父(や兄)と母の再会はない。この映画に出てくるのはただ兄と弟の二人だけであり、それ以外は、後ろ姿のみの父と、病院のベッドの上の祖母と、電話の声としてだけあらわれる母がいるだけだ。この87分ある映画のほとんどの場面は、一方のパートで、延々とドライブしている二人の男の姿があるだけだし、もう一方のパートでは、久しぶりに会ってなんとなく気まずく、会話もはずまない兄弟(弟は兄に敬語を使っている)の姿があるばかりだ。例えば、かなり親しい若い男が二人で会ったとしても、一方はマンガを読んでいて、もう一方はゲームをしていて、時々、「あっ、そういえば、こないだのあれ、どうなったの」「うん、なに?」とか、ぼそっと話すだけというのはごく普通のことだし、むしろそのような時間をもてるということが「親しい」ということなのだが、この映画ではそんな感じの時間ばかりがずっとつづく。しかしそれは、たんなるリアルのためのリアルみたいなもの(いかにも、いまどきの脱力系の若者のリアルを描くみたいなもの)とはまったく関係がなくて、その時間からとても貴重なものがじわっと滲み出してくるようにちゃんとつくられている。おそらくそれは、場所や記憶に対する作家の真摯な態度からくるのだと思われる。