●お知らせ。「文藝」2011秋号に、『私のいない高校』(青木淳悟)の書評を書きました。あと、明日、8日付の東京新聞夕刊に、「バウル・クレー/おわらないアトリエ」展のレビューが載る予定です。
大江健三郎の小説を読んでいると、この作家がいかに分身にとりつかれているのかということを感じる。しかしここで重要なのは、分身は決して「私」に似ていないということだ。つまり、分身はドッペルゲンガーではない。私を表現し、代理表象する対象ではなく、一つの場をめぐって私と生死を賭けて戦うライヴァルであるような鏡像でもなく、むしろ、常に鏡像からこぼれ落ちてしまうような何かなのだ。それは決して私に似ることが出来ないという形で私と関係するものであり、私の可能性でありながらも、私から限りなく遠く離れた何かなのだ。つまり、決して私と似ることのないもののなかに、私の分身を見出すこと。しかしその時、私はすでに私とは別のものになっている。いや、というよりも、私が、私に似ていないもののなかに分身を見出すことによって開かれる「(私-分身の)関係」が、世界の新たな様相を(その都度)出現させる、というような。
そして、そのような分身について深く考えていたのがアラカワ+ギンズであるように思える。以下に引用するのは、養老天命反転地の「極限で似るものの家」の「使用法」だが、これはそのまま、大江小説の使用法ともなるように、ぼくには思われる。
《何度か家を出たり入ったりし、その都度違った入口を通ること。》
《中に入ってバランスを失うような気がしたら、自分の名前を叫んでみること。他人の名前でもよい。》
《自分と家とのはっきりした類似を見つけるようにすること。もしできなければ、この家が自分の双子だと思って歩くこと。》
《今この家に住んでいるつもりで、または隣に住んでいるようなつもりで動き回ること。》
《思わぬことが起こったら、そこで立ち止まり、20秒ほどかけて(もっと考え尽くすために)よりよい姿勢をとること。》
《どんな角度から眺める時も、複数の地平線を使って見るようにすること。》
《一組の家具は、他の家具との比較の対象として使うこと。》
《遠く離れている家同士に、同じ要素をみつけること。最初は明らかな相似を見つけ出し、だんだん異なる相似も見つけ出すようにすること。》
●またアラカワは、「奈義の龍安寺」について、「あなたが動くことによって、あなたがつくり上げる生命が、あなたの外側にできる」場所だと言っている。つまりそれは決して鏡像ではなく、そこから零れ落ちるというよりも、鏡像を追い抜いてゆくものというべきかもしれない。