●昨日の日記で、上下の逆転は左右の非対称性を顕在化するというようなことを書いたけど、それで思い出すのが『コッポラの胡蝶の夢』という映画で、この映画では上下が逆転したカットが印象的に使われている。上下逆転のカットは主に夢の場面であらわれるのだが、しかし重要なのは、この映画では分身が扱われていて、それが上下逆転と密接に関係しているように感じられるという点だ。分身は、通常通りというか、お約束通りに鏡を媒介として生まれる。つまり、二つの左右反転像が重なって、構図が左右対称形になる、という操作が分身を生む(厳密にそのような場面があるのではないが、概念的にはそういってよいだろう)。だが、左右対称と言っても、分身は本身のコピーではなく、むしろ本身からこぼれ落ちるズレのようなもので、つまり対称形であるにもかかわらず非対称的である。しかし、鏡による左右反転だけでは、この非対称性が十分効果的に現せない。そこで上下逆転の像が、(重力の作用によって)非対称性が無視できない対称形を示す。実は、鏡によってではなく、上下逆転像によって分身が発生したかのようにすら感じられる。
実は、分身というのは、人間の身体が左右対称形にも関わらず、その機能が非対称的である、というところに、つまり左右の意味に違い、左右の分裂にそのリアリティの源泉があるのではないか、と、ふと思った。昔、『マジンガーZ』というアニメにアシュラ男爵というキャラクターが出てきて、右半身が女性で左半身が男性という姿をしていた。あるいは、これは実写だが『人造人間キカイダー』というヒーロー物のドラマがあって、主人公のキカイダーは、右半身が青で左半身が赤、そして、顔が中心から二つに分かれていて左半分はその内部の機械が透けて見えていた。しかも、顔の左半分が右半分より顔が一回り大きいのだった。こういうキャラクターこそが分身の原型なのではないだろうか。だからそれは、失われた半身ではなく、一つの身体の上にあるのに(ここにあって同時に作動しているのに)決して一つには重ならない、異なる位相へとズレてしまう半身のことなのではないか、と思った。だからそれは、例えば陰と陽という二つの原理がある、というような単純なことではなく、「二つの原理がある」と言えるための(二つの原理を並置させるための)一つの地平がそもそも成り立たない、ということなのだ。上下反転、左右反転、という対称形によっては捉えられない、その重なりが重ならずに必ずズレてしまう異次元への亀裂というのか。