●引用、メモ。『対称性の破れが世界を創る』(I.スチュアート M.ゴルビツキ―)より。パターン形成は、対称性の破れ(対称性の低下)であること。
≪このようなパターン(自然界の数学的パターン)はどのように生起してくるのだろうか。ここで、対称性の破れとして知られている、パターン形成におけるひとつの基本的な過程に注目することにしよう。これはそれ自体、逆説的な現象である。この現象はある対称的なシステムがそれより低対称な振る舞いを始めるときに生起する。ある仕方で――これこそわれわれがこれから探求しようとしているものにほかならないのであるが――対称性が失われてしまうのである。奇妙なことであるが、対称性の消失の典型的な結果が、規則的な幾何学的形態という意味でのパターンの形成なのである。なぜなら、すべての対称性が失われてしまうことなどめったにないからだ。あまりにも対称性に富んでいるものは、ぱっと目を引くパターンとしてではなくむしろあまり目を引かない退屈な均一性として認識してしまう。それが人間の精神の珍妙なところである。ある対称性が失われても、この心理的なトリックのためにパターンが形成されたように見えてしまうのである。われわれは池の水面に広がる円形の波紋(どうして円形になるのか?)に現れるパターンに好奇心をそそられるが、一方、池の水面それ自体の平坦さ(それはどこもまったく同一である)がもつもっと大きな対称性の方に興味をひかれることはほとんどない。数学的にみれば、一様で何の変哲もない平面ほど対称性に富んだものはない。≫
●例えば、ボールに入ったミルクに一滴のミルクを落とすと、まるで王冠のような、24個の突起をもつ跳ね返りがあらわれる。もし、完全な円柱形の容器に、完全に安定した状態でミルクが入れられていて、その円柱形の円の中心に向けて一滴のミルク(完全に球形である)を垂らしてみる、とする。この状況を水平方向から見るとすると、その光景は360度どの方向から見てもまったく同じ状態が見える(どこから見ても、「見え」によってでは視点が「どこ」であると見分けがつかない)。つまりこの状態は、水平方向から見る限り円対称であると言える(円が、どのような角度で回転を加えてもその形をまったく変えないのと同様に)。しかし、水滴がミルクの表面に達し、王冠状の跳ね返りが生じると、対称性は低下する。目に一番近い位置に24本の突起のどれがかくるのか、それとも目に一番近い位置に突起と突起の間がくるのかで、見え方が変わってしまう。つまり、15度の整数回の回転に対してだけ対称的であるという状態になってしまう。これは、完全に円対称である状態が、外からの干渉を受けることのないまま、いわば自発的に対称性を低下させたと言える。
●では、何故そのような対称性の低下が起こるのか。それは「安定性」という概念によって説明される。ある対称的な状態が何かしらの力によって不安定になった時、もっとも手近にある、安定的で、かつ対称性もある程度保存するような状態へと移行しようとすることで、対称性を低下させる。
≪ここに何が欠けているといえば、安定性に関する概念である。自然界のあらゆるシステムは安定でなければならない。つまり、そのシステムが何らかの原因で乱されたとして、それがもつ形態を保持しつづけなければならないのだ。側面を下にして転がっている一本のピンは安定である。(…)ピンが先端で立っている状態は、理論的には可能であるが、現実世界では起こらない。このような状態は不安定だからである。≫
≪同様にして、ミルクのはね返りが円対称の状態からスタートするのに、どうしてそれを失って突起を生ずるのかについても理解することができる。われわれは、成長しつつあるミルクのリングが、でき始めの時点では円形をしているのに、その後突起が現れて高く伸びてゆくのをすでに観察した。たぶん、そのリングはあまりに高くまで成長して不安定になってしまい、曲がってしまうのだ。球体や円柱の場合とちょうど同じように、それははじめ波状になる。詳細な流体力学的計算によれば、二四個の波をもつ形を選択するはずだが、それは非常にやっかいな計算をしてはじめて確かめられる。しかし、対称性の破れに関する一般的な数学を利用することによって、最終的に生き残るであろう対称要素が正多角形のもつそれであることは予測できる。≫
●だけど、24個の突起が出来ることは計算できても、その突起が「どこ」に起きるのか――見ている目の前なのか、それとも目の前にあるのは突起と突起の間ということになるのか――は、予測できない。数学的に、ただ一つの結果が予想されるわけではない。
≪対称性をもったシステムにあてはまる諸要素からは、数学的にはただひとつの結果が予測されるわけではなく、往々にして対称的に関連したすべての結果からなるセットが予測されるのである、とわれわれは述べたばかりである。しかるに母なる自然は、それらの数学的に可能な結果のうち、どれに、実際に生起するのに必要な手段を与えるか、選択しなければならないのだ。
それでは、どんなやり方で選択するのだろうか。
その答えは、不完全性ということにあるように見える。自然が完全に対称的であることは決してない。自然界には常に小さなくぼみやこぶがある。分子の熱振動のようなわずかなゆらぎも常に存在している。これらの小さな欠陥が自然という名のサイコロの中に重りを入れ、完全に対称的なものに対する数学では同等に可能であると考えられる可能な結果のセットのうち、ある特定のものの目が出やすいようにしているのである。≫
●だから、原因と結果とを、同じスケールで考えることは誤りであるということになる。
≪過去の歴史の中には、科学者や哲学者たちが――ある種のパターンのような――結果の中に現れるスケールの大きな(ラージスケールの)非対称性を説明するためにキュリーの原理を適用し、その原因の中にもラージスケールの非対称性を捜し求めるというような誤った例がたくさん散在する。一例を挙げると、ごく最近に至るまで天文学者たちは、銀河の渦状腕は磁場が原因でできるものと考えていた。しかし今日では、第6章で見るように、このような渦巻きは重力的な対称性の破れの結果であると考え始めている。(…)後述するように、系が対称的であればあるほど、その対称性が破れるチャンスもそれだけ多くなる。そのようなときに、可能な種々の結果の中から現実に生起する結果を選び出すのに、非常にかすかな非対称性がむしろ決定的な役割をすることになるのである。≫