●ぶらっと桑山忠明を観に行ってしまった。できることなら、ふと気づいたらもう終わっていた、ということにならないかと思っていたけど、そうはならなかった。引っ越して、葉山は割と近くなったし、天気もよくあたたかい日だったので、ふと思い出してしまったのだけど、まだ終わっていなかった。
できることなら二十年前に観たかった、というのが正直な気持ちだ。これはあくまでも、ぼくの人生においてのタイミングということで、作品が古くなったということではない。ただ、ぼくにとっては二十年遅い。去年のポロック展もそうだったけど、なんで今なのかと思ってしまう。今、ポロックや桑山をまとまった形で観るということは、ぼくがぼくの人生のなかで何かのタイミングを完全に逸してしまったということを確認するような行為となるだろう。今のぼくに、本気で桑山を観るような気持ちがあるのだろうか。その気持ちをどうやって整えればいのかよく分からない。上手く観られる気があまりしない。気持ちがやや離れているとしたら、例えば八割くらいの気持ちで桑山を観てしまうことは、過去の自分に対してどうなのか。もし二十年前に見ることが出来たとして、その時の気持ちと同じ強さで(「同じ気持ちで」である必要は勿論ないが)観ることができないとしたら、下手に観ない方がいいのではないか。今、桑山を観ても、それはそれなりにいろいろなことを感じるだろうし、そして、自分がそのように感じたことについて、いろいろと考えることとなるだろう。それは、今のぼくには少々鬱陶しいこととなるだろう。とはいえ、「ふと気づいたら終わってしまっていた」という幸運が訪れなかった以上(会期中に気付いてしまった以上)、気が重くても見に行かなくてはいけないということなのかもしれない。そう思って観に行った。
●まず感じたのは、これって限りなくトリックアートに近いんじゃないかということ。ずいぶん趣味の良いトリックアートではあるけど。
●桑山忠明の作品はあきらかにアメリカ型のフォーマリズムの問題を継承している。例えばその特徴の一つに非造形性というのがあると思う。造形とはつまり、特定のフレームがあってそのフレームのなかに「よい形」が配置されることだ。あるいは、形が形として見えるためにはフレーム(地)が成立していなければならない、というようなこと。例えばインスタレーションのように空間全体がフレームとなったとしても、フレーム内の形が問題であれば造形的なものだということになる。対して、例えばジャッドの規則的に並んだ直方体(というか箱)の作品などでは、置かれたモノ(直方体)が作品なのではなく、そのモノが置かれることでその場所が作品となる。そこには図と地の区別がなく、人はモノ(実の形)を観ているのでもモノとモノの隙間(虚の形)を観ているのでもなく、空間を分節する仕草のようなものだけを観ることになる。つまり「形」がなくて、いわば空間=リズムだけがある、ということになっている(空間がリズムによって満たされている、というのか)。つまり、そう見えるように絶妙に直方体を配置するわけだけど。いやそれでも、でもここに直方体があるじゃん、と言って指さして、直方体の方に注目してしまうと、それはすぐにモノ(図、造形)になってしまうのだけど。
(だから、モダニズムの作品とミニマリズムの作品の違いは、モダニズムの作品はモノや形を見せるのではなく、モノと空間が一体となった空間=リズム=仕草を見せるのに対し、ミニマリズムの作品は、モノや形――仕草ではなく身体――の「ミニマル」であることによる「プレゼンスの強さ」を利用し、それに依存してしまっているというのが、おそらくフリードの立場なのだと思う。でもまあ、この違いはすごく微妙で、ぶっちゃけ、言い方次第でどうとでも言える、とも言えてしまう。まあ、だからこそモダニズムでは言説=批評が力をもっていたとも言える。)
モノと空間、あるいは図と地の区別がなく、空間を分節する(活気づける)仕草や力のようなものだけが見える(空間=リズムとなる)状態としての非造形性は、知覚の非物質性という性質を浮かび上がらせる。つまり、直方体(箱)が見えるのではなく、空間のなかに直方体が置かれたときの「リズム」が見えるのだとすれば、リズムという「知覚されたもの」は物質に根拠を持たないことになる。直方体が置かれているから、直方体の形やテクスチャーが見えるのではなく、直方体と空間との配置によって「リズム」が見えるのなら、それは物質に依存しない、非物質的な、かげろうのようにたちあがる知覚(知覚内容)であることになる。そこに「リズム」という物質が存在するわけではないのに「リズム」が見えるのだから。非造形的で、図と地が一体となっているから「形」ではないもの(つまり、見えないはずのもの)で、さらに物質ではないから、そこに存在しないもの、が、見えてしまう。形でもないし存在もしないものが、しかし純粋に視覚的に(物語的にとか概念的にではなく)見えてしまうこと。ここにおそらく、モダニズムの神学が賭けられている。この時に「見える」何ものかこそが恩寵であり、モダニズム的フォーマリズムの作品の究極の「内容」ということになるのだと思う。ずごく単純化して書いてるけど。
物質の存在(位置)に定位されない知覚には、リズムの他に色彩があるだろう。物質の上に塗布された色彩、あるいは物質としての絵の具の持つ色彩ではなく、(リズムそのものが「そこ」にあるように)色彩そのものが、どのような物質にも、そして形にも依存せず「そこ」にあるかのような知覚を出現させることもまた、(狭義の)モダニズムの作品(神学)の目標となる。実際には、色は絵の具の色だし、それは支持体に塗布されているのだけど、そうは見えないように組み立てる、ということ。そのような作品においては、色彩そのものが作品の「内容」となる(例えばモーリス・ルイス)。
ここまで書いたことは、そのまま桑山忠明の作品にも当てはまるだろう。しかしここで引っかかるのが色彩だ。展示されている作品で桑山は、色彩の非定位性を、角度や光の当たり方によって色合いが大きく違ってみえるようなメタリックな塗料によって実現させている。その不安定さによって、確かに、物体がどんな色であるかということを目は決定できないので、これらの色彩は物質性から遊離しているとは言えるだろう。そしてその効果、あるいは効果に対する抑制された趣味は上質かつ魅惑的なものであると思う。でも、その効果はあくまでリテラルな効果であって、絵画や彫刻の(虚の、虚構の次元の)問題ではなく、視覚的なトリックの、もっと言えば光学的で工学的な技術の問題なのではないだろうか。トリックとなってしまえば、それはもはや、モダニズムの理念(神学)とはまったく別物になっているのではないだろうか。勿論、モダニズムなどどうでもよいと言ってもよい。それは全然オーケーだ。しかし、もしそれでも良いというのならば、現在の技術ではもっともっとすごいこと(ホログラフィーとか)がいくらでもできてしまうのではないだろうか(あるいは既に我々は、小林正人のようなメタリックな絵の具の使い方も知っている)。ここでは、モダニズムの理念が骨抜きになって、だだモダニズムの趣味だけが生き残っているのではないだろうか。勿論、それはそれでよい趣味であり、高い精度があり、とても美しい作品であるとは思う。Room5の作品とか、趣味としてはずごく好きだし。だから、このように書いてしまうのは、半分はぼくの勝手な思い入れのせいだとも言える。
●以上をふまえて、ぼくが一番面白いと思ったのは最初のRoom1の作品だった。なんというのか、この作品だけ、周囲の空間に対して閉じている感じがしたのだった。他の作品が、空間(壁面)=リズムとなって、実部と虚部が分かちがたく一体化するように配置されているように思えたのに対して(少なくとも「モノを観る」ようには配置されていなかったと思う)、Room1の、あの風呂屋の椅子のような形だけは、周囲の空間とは関わらず、自身の形態の内に閉じていて、逆に、光沢のある自らの曲面(側面)に周囲の空間を歪んだ形で映すことで、空間を内に取り込んで、閉じ込めてしまっているように感じられた。それぞれに閉じた16のピースが、周囲の空間と隣り合うピースの歪像を映すことで内に取り込み、並行世界を増殖させつつも、それら一つ一つは孤立し閉じている。それを観ているうちに、観ている自分がその外の空間にいるのか、その内に閉じ込められているのか分からなくなってくる。自分が今、葉山にある美術館のこの位置に立っているという「メタ認識」が大きく揺らぐ。というか、われわれのいる「この空間」もまた、そこに並んでいるピースと同様の、互いを映し合う17個目のピースの内側にある歪像に過ぎないようにさえ思えてきて、だとすればそれ(ここ)は一体「どこ」にあるの?という不安が押し寄せてくるのだった。正直、かなり生々しい恐怖に近い感情を持った。この恐怖は、作品のメタリックな触感とも繋がっているように思った。このような、世界そのものの反転のような感触は、他の作品では感じられなかった。色彩や、同一形態(フレームの矩形)の反復からくる幻惑は一時的、部分的なもので、それを観ている自分の位置(メタ認識)までが危うくなるところまではいかなかった。