●鎌倉の、神奈川県立美術館の別館で「松本竣介 創造の原点」、初台の、東京オペラシティアートギャラリーで「オランダのモダン・デザイン リートフェルト/ブルーナ/ADO」を観た。どちらもぼくの趣味にどんぴしゃな感じで、とても楽しかった。
松本竣介展では、どうみても上手とは言えない石膏デッサンが展示されているのだけど、松本竣介は、形態を立体として捉えようとしたとたんに硬直してしまう感じがある。人物の顔を立体的に捉えようとした絵などは、「立体的に捉える」ことだけで力尽きてしまって、それだけの絵になってしまっている感じ(さすがに「立てる像」はそこを越えてはいるけど、最良の作とは言えないと思った)。それに対し、人物の表情を情緒的に捉える手捌きは天才的だと思うし、風景もとてもよい。松本竣介の場合、立体的でも平面的でもなく、空間が情緒的に立ち上がっている感じがする。この感じはちょっと国吉康雄に近い(空間-情緒の質は異なるけど)。西洋近代絵画のマイナー版である日本の洋画の数少ないオリジナリティとして、「空間を情緒的にたちあげる」という形の表現があるのかなあと思ったりした。香月泰男とかにも、そういう感じがある。
(ヨーロッパにも抒情的抽象という傾向はあるけど、その場合、非定型性あるいは非形式性が強調されている。そうではなく、空間が情緒的に---情緒の質や濃淡、連続性と非連続性の違い等によって---構築されている感じ。油絵具の物質性を、情緒の表現として上手く使っている感じが日本の洋画にはある。この情緒的空間構築性は、マネ、セザンヌマティスと発展してゆく、ヨーロッパ的な絵画空間の形式性、構築性とは異なる。)
(情緒性は通常、物語と結びついて「文学性」などと呼ばれ、嫌われたり好かれたりするのだと思うけど、情緒が必ずしも物語と結びつく必要はなくて、絵画における情緒性は、空間的で非物語的なものだと考える方がいいと思う。)
(精神というと画家の内部に確固としてある感じだけど、情緒は内と外とを曖昧に漂っている。この情緒というものを、簡単に否定するのではなく、また逆に、変に持ち上げるのでもない形で、突っ込んで考えるべきかもしれない。)
あと、タブロー以上に、線描によるスケッチがすばらしかった。線描はマティス並みにすばらしいのではないか。
同じ会場に藤田嗣治の絵も展示されていた。藤田の絵は、上手いけど、面白くないんだよなあといつも思うのだけど、藤田を好きな人は多い。
レンブラントフェルメールからモンドリアンまで、17世紀以降のオランダ絵画には偉大な達成の歴史がある。科学革命のあった17世紀以降を広義のモダンと考えると、それら、芸術におけるモダニズムの達成が、人々の生活に直接的に触れるような文化に対してどのような影響を与えたのか。オペラシティの展覧会ではそれを、グラフィック(ブルーナ)、玩具(ADO)、家具・建築(リートフェルト)という三つの側面からみるようなものだといえる。つまり、平面、模型、実物という三つの異なるディメンションを通じて、それらすべての通底する「モダニズム的な趣味」というべきものを立体的に浮かび上がらせているような展示だと思う。
フェルメールモンドリアンの国の文化的生産物は、モダニズム的な洗練と文化的な土着性が絶妙に絡み合っていて、ため息が出るくらい好きだと感じた。オランダ人超うらやましい。こんな国に生まれたかった。絵画としてみればブルーナマティスよりは弱いかもしれないし、建築としてみればリートフェルトコルビュジエよりは弱いかもしれないけど、そういうことじゃない。このような文化的生産物が身の回りに普通にあり、このような物たちを自然に受け入れる文化的土壌があり、つまり誰でもが気付かぬうちにそこに触れているバーチャルな次元において、このような文化的な質が存在しているということがすばらしいし、そのような環境で生きている人々がうらやましい。
個々の作品における、例外的達成としての芸術作品の仰ぎ見る高さといったものとは別の、そこここから温泉が湧き出しているような環境の豊かさと、その温泉の成分としての趣味の良さとを堪能するような展示だと思う。
●それとはまた別に、この展覧会で面白かったのは、オランダ的なモダニズム趣味とでもいうものを、平面(グラフィックや絵本)、模型(玩具やドールハウス)、実物(家具や建築)という、異なるディメンションの作品の交錯によって浮かび上がらせようとしているところで、これは、美術作品の展示のあり様として、または、作品のあり様として考えても、かなり面白いのではないかと思った。異なるディメンションに並置によって、そのどこにもないものがあらわれる、というような。