●展覧会のリーフレットにテキストを書くことになったので、秩父にあるアトリエまで、浅見貴子さんの新作を見せてもらいに行った。お昼くらいに駅につく感じで行きます、と言っていたのに、目が覚めたら十一時半だった。電車の連絡が悪かったせいもあって、西武秩父駅についたのは三時近かった。
学生の頃にバイトで週に二回くらいは電車で甲府まで行っていて(甲府でバイトしていたのではなく、電車で甲府に行って荷物を受け取って、それをまた電車で八王子まで運ぶというバイト)、きっと、西武線秩父の方へ向かう感じは、中央線で甲府の方(相模湖とか藤野の方)に向かう感じに近いのだろうと予想していたのだが、全然ちがった。八高線東飯能まで行って、そこから西武線に乗り換えるのだが、西武線に乗って少し行くと、生えている木の形が、激しいというか、やたらに元気というか、荒々しい感じになってゆくのだった。ベタな言い方だけど生命力が過剰というか、木の形も山の形も、風景全体から受ける印象が、ごつごつしていて、濃くて荒いのだった。ちょっと好き勝手に育ち過ぎだろう、という感じの木が、がんがん生えている。うちの近くにも巨木とかけっこうあるけど、秩父の木に比べると、受ける印象が全然おとなしいというか、マイルドな感じ。浅見さんによれば、秩父は、みかんの栽培の最北端で、りんごの栽培の最南端で、植物の種類が最も多いということだった。さらに(関係ないけど)、秩父だけで年間三百から四百も祭りがあるそうだ。その意味でも濃くて、過剰な感じ。
そして、電車が終点の西武秩父駅に近づいたときに、突如、ものすごいインパクトのある山がどかんと目に入ってくるのだった。しかも雪を被っている。それは武甲山という石灰岩の山で、今でも採掘がつづけられていて、年々形がかわっている山だそうだ。秩父にサントヴィクトワール山があるなんて思ってもみなかった。
なんというのか、秩父に行ってみて、浅見さんに絵を描かせる力というか、浅見さんの絵が「ここ」で描かれることの必然性のようなものが、ちょっとだけ腑に落ちたような気がした。
とはいえ、浅見さんが木を描こうと思ったのは上野公園の木を見たからということだし、描いているのは自分の家の庭の木だし、滞在先の倉敷とかの木も描いているのだから、秩父の山のなかの木を描いているというわけではないのだが。そうだとしても、秩父の木の過剰な感じと(それをそうさせる土壌や気候と)、浅見さんが木を描くこと、あるいは、その絵から受ける感覚とに、繋がりがあるように感じられたのだった(というようなことはリーフレットには書かないつもりだから、ここに書いた)。
●あと、浅見さんのアトリエで見せてもらった、メトロポリタン美術館でやったボナール展の図録がすばらしかった。もちろん、ボナールがすごいということはぼくも既に重々知っているはずなのだが、ぼくが知っているボナールのすごさよりも、さらにすごいボナールの作品がその図録にはたくさんあった。いや、そうではない。その図録に載っている作品が、ボナールのすごさを新たな形でぼくに示してくれた。ボナールの画集は何冊も持っているのだが、そのどれにも載っていなくて、しかも、ボナールの更なるすごさを示している作品が、その図録にはいくつも載っていた。帰って、自分の持っているボナールの画集を改めてひっくり返して見て、ひたすら溜息をつく。そして、色彩というものが、絵画いうものが、この世界に存在してくれていることに感謝する。たとえ、ボナールには遠く及ばないとしても、(色彩によって仕事ができる)画家であるということは、なんと幸福なことなのだろうかと思う。
●電車のなかから撮った武甲山の写真。