2019-08-28

●『高架線』(滝口悠生)、読んだ。

小説としての「つくり(語りや構造)」の面白さということについては分からないではないが、その「つくり」を支えている(というか、実際にそれをつくっている)具体的な細部の一つ一つについて、いまひとつしっくりしない感じがはじめからあって、読み進めていくにしたがってその「しっくりしない感じ」が少しずつ大きくなっていった。

たとえば、終盤になって映画『蒲田行進曲』の話がけっこう延々と語られる。そして、『蒲田行進曲』という映画そのものや、それについて語られる事柄は、様々なレベルで、小説の他の部分と分かちがたい関係や共鳴が張り巡らされている。ここで、この共鳴が一義的なものではなく、様々な場面、様々な人物、様々なレベルにおいて生じていて、がっちり食い込んでいるということが、この小説の「つくり」の複雑さや面白さを示していると思う。

ただ、当の『蒲田行進曲』の話そのもの、および、『蒲田行進曲』について語られる話そのものが、ぼくにはどうにも面白いと思えなかった。この『蒲田行進曲』の話、いいかげんもう終わらないのかなあと思いながら、終盤を読んだ。この小説においてこれは重要だし必要だということにはすごく納得する、しかし同時に、でもここ、面白くないんだよね、とも思ってしまう。

(面白い/面白くない、というのは主観的な判断で、これこそが面白いのだという人もいるだろう。)

もう一つの例。これは重箱の隅をつつくいちゃもんのように聞こえるかもしれないが。

ある失踪した人物が、秩父の山奥のうどん店で働いているという情報を得て、彼の友人三人が(正確には、二人の友人+一だが)、彼を訪ねるという場面がある。この時三人は、秩父へ向かう西武線のなかでたくさんのビールを飲んでおり、そして、駅についてバスを待つ時間にも、さらにビールを飲む。だが彼らは、この後、四十分くらいバスに乗って山奥へ向かって行かなくてはならない。

普通に考えて、トイレは大丈夫なのか、と思ってしまう。勿論、バスに乗る前には済ませておくのだろうが、だとしても、これだけ大量にビールを飲んでいると、かなり頻尿になるよね、と思ってしまう。電車なら駅ごとにトイレもあるだろうが、この人たちはこれから短くない時間バスに乗って、山に入っていくのだから、ここはもうちょっと抑えるのではないか、と。

この程度の違和感であれば、普通はスルーするという程度のことに過ぎない。ただ、この小説で登場人物たちはけっこう頻繁にビールを飲んでいる。歩きながらビールを飲み、昼間の公園でビールを飲み、部屋に戻ってビールを飲む。秩父のうどん店で失踪した人物と合った後も、彼らはビールを飲む。多くの人物が昼間から割と気軽にビールを飲むということが、この小説の基本的なトーンを形作る小さくない要素となっていると思う。

これだけ頻繁にビールを飲む人たちは、それなりに頻繁にトイレに行くのではないか。そして、頻繁にビールを飲む習慣をもつ人たちが、トイレのことを気にしないということがあるだろうか、と思ってしまう。つまりこの違和感は、ある特定の場面における(スルーすることも可能な)限定された違和感ではなく、小説全体にまで広がる。小説に頻出する「ビールを頻繁に飲む人たち」の、「ビールを飲む」という行為のリアリティの有無にかかわってしまうように感じられた。

つまり、この違和感によって、彼らが「頻繁にビールを飲む」ということ自体が、ある種の雰囲気を演出するというだけのものなのではないかという疑問が芽生えてしまう。彼らにとってビールは、生活や人柄の奥深くにまで食い込んだものではなく、そのごく表面を飾っているだけのものなのではないか、と。たばこを美味しそうに吸っているように見えるけど、実は雰囲気で吹かしているだけなのでは…、みたいな疑問(軽い不信の萌芽のようなもの)が生じてしまう、というような感じ。

読み進めていくにしたがって「しっくりしない感じ」が積み重なってきてしまうというのは、こういう、ほんのちょっとした小さい違和感やリアリティの齟齬の積み重ねということなのだが。最初の方はけっこう面白いなあと思って読んでいたのだが、次第に、ぼくと小説の間に薄い皮が一枚ずつ挟まっていき、最後の方を読むときはちょっと引いた感じになっていた。

(そして「銃」が出てくるところで、割と大きく「うーん」という感じになった。)

●これは、フィクションをたちあげるときのリアリティの基調となるチューニングをどうするのかという問題(小説・小説家が行うチューニングの幅と、読者が納得するチューニングの幅とのズレの問題)で、おそらく、この小説のチューニングに最初から何の違和感ももたない人もいるだろうと思う。

(そしてこのようなチューニング幅は、大きく隔たっている人同士よりも、中途半端に近い人同士の方が「違和感」が際立ってしまうのだと思う。そして、自分自身のチューニング幅を他の人に対して正当化することはできない。しかし、それ自体が自分と世界との関わりの根底にあるようなものだから、そう簡単に相対化する---譲る---こともできないものだ。)

(この小説がどうこうというより、この小説を読み進めることで自分のなかで起こったことが気になったので、このようなことを書いた。)