●本を読んで、散歩して、本を読む。ようやく、『突囲表演』(残雪)を最後まで読んだ。途中までは、本当にまったく見通しのきかない《びっしりと生い茂った密林》のなかを、うろうろと行きつ戻りつしながら進んで行く感じだったのが、終盤になって、一気に勢いがついてダーッと進んだ。最後に、こんなにきれいに着地するとは思ってもみなかった。残雪は、外側から「形」としてみると、けっこうきれいに纏まっているというか、きれいに図式に落とし込めてしまうようなところもあるのだが、しかし内部はあまりにごつごつ、でこぼこして、読み進んでゆく時のチューニング合わせの頼りとなる、基底のトーンのようなものさえが壊れていて、その外観と内観とのギャップが大きい。この「きれいな着地」にすべてが収斂されてしまうわけでは勿論ないが、しかしこの「きれいな着地」には必然性がある、と感じられる。この小説(を構成する雑多な細部だち)がこの結末に行き着く必要が絶対にあったということと、しかしその到達点によって(それぞれの細部がそれぞれにもつ)外への多数の通路が閉じられてしまうわけでは全くないこととが、両立している。全体としてはあきらかに「寓意」があるのだが、その寓意をつくりだしている細部は、かならずしも寓意のための下位の部位として寓意に従属しているわけではない。寓意のために細部があるのではなく、個々の細部のもつ動きが集積されることで、ある時に突然、偶発的に寓意に到達する、という感じ。細部の力が寓意を発見する、というか。
この小説からは、ロシアの小説(ゴーゴリとか初期のドストエフスキーとか)のような感触を強く感じた。19世紀のロシア小説のような密度と、大江健三郎をさらに複雑にしたような構造というか。
いわゆる、信用できない語り手による語りというか、この小説のすべての登場人物の「言うこと」がことごとく信用出来ないのだが、そのなかでもっとも信用出来ないのが、というか、間抜けで、鈍感で、教条主義的で、日和見的で、忘れっぽくて、頭が悪いのが、語りの全体を統括している語り手(速記人)で、そのような語りの鈍感さによって、現に語られていることと同時に、その裏に隠されていること(語りの次元で実際に問題にされている「謎」ではなく、語られることによって隠されているもうひとつの別の何か)が常に(精神分析的に?)意識され、結果、どの場面でも常に二重のことが語られていることになる、というような語りの構造が、ただでさえ雑多な登場人物たちそれぞれがそれぞれに他者と共有出来ないような独自の世界の内部に生き、好き勝手に行動しては語っているこの小説の不透明な世界の感触をさらにいっそう複雑なものにしている。そして、しかしなぜか、そのバラバラな人物たちによる勝手な行動の集積が、ある閉じた集団のなかで集団的的な力の場(権力)を自然に形成しててしまうという作用もまた、間抜けな語り手による語りの効果(語られていないことこそを意識させるような語り)によって把捉される。この力技ととんでもなく凄いことように思われた。