●今日もまた、本を読んで、散歩して、本を読む。散歩の途中で久しぶりに立ち寄った地元の古本屋に、高橋悠治の『ロベルト・シューマン』があって、腰がぬけそうに驚いた。この伝説の本の実物を見たのははじめてだった。値段をみたら、8400円という微妙な値段で、はじめから「絶対無理」という値段だったらあきらめがつくが(近藤直子さんの話によると、残雪の最初の長編『黄泥街』は古本屋の相場でだいたい二万円くらいの値がついているそうだ)、無理をすれば買えない値段ではない。しかしそれは、今のぼくにとっては相当な「無理」なのだった。かなり悩んだ結果、結局買わないで帰って来てしまって、すごく後悔している。こういう偶発的な出会いは逃すべきではなく、借金してでも買うべきだった。次に行った時は、多分もうないだろう。
●今日は『暗夜』(残雪)に収録されている七つの短編のうち、四つ(「阿梅、ある太陽の日の愁い」「わたしのある世界でのこと---友へ」「帰り道」「痕(へん)」)を、じっくりと、メモをとったりしながら読んだ。どれも面白いのだが、特に「痕(へん)」の凄さには圧倒された。数行読むたびに、はあーっ、とため息をついたり、すげーっ、と唸ったりしながら読んだ。正直、今日は、これ一編を読むだけで力尽きた感じだ。「痕(へん)」は、長さとしては長めの短編小説というくらいなのだが、その密度というか、作品の力として、あの長くて饒舌な『突囲表演』を凌ぐものだと思われる。この小説も、はっきり「これ」と指定できるテーマがあり、わかりやすい寓意があり、作品全体として「そこ」へ収斂されてゆくわけなのだが、それによって作品が単調になったり、弱いものになったりしない。作品を構成するすべての細部が、すこしも縮減されることも要約されることもなく、それ独自の質感を保ったまま(保っていることによって)、「寓意」が形成される。この小説はあきらかに「死」が主題(「死」が作品の「意味」である)となっているのだが、その「死」という言葉の意味は、この「痕(へん)」という小説の一字も欠けることのない全体のことなのだと思う。
●最近よく、「死の恐怖」への恐怖、の夢をみる。お前は明日死ぬと宣告される。だが、その実感は今のところまったくない。その実感のなさがまず不安なのだが、さらに、明日になったら、きっと、死への恐怖で押しつぶされそうになるのだろう、と感じる。死の恐怖というものがどれくらいのものなのか、今の自分には想像することも出来ない。その、想像出来なさ、底のなさへの恐怖がじわじわと広がり、次第に耐え難いほどに強いものになってゆく。そして、そこから逃れるように目が覚める。