●(つづき)「黒つぐみ」の難しさは、一見すると分かり易いようにも感じられるところからもきている。前に、岩波文庫の『三人の女・黒つぐみ』を読んだ時、「三人の女」にとても強い印象を受けたのだけど、それと同じモードでは「黒つぐみ」は読めなかった。同じ感じで読もうとすると、ひっかかりが得られないというか、するっと滑ってしまって、肩すかしをくったように感じられた。特に最後の締めは安易であるようにすら感じた。
今回読み返したのは、古本屋でみつけた『現代ドイツ幻想小説』というアンソロジーにたまたま「黒つぐみ」が収録されていたから。岩波文庫とは違うもモードで読んで、前に読んだ時とはすこしちがったひっかかりを感じた(翻訳はどちらも同じ川村二郎なので、本文に大きな違いはないと思われる)。
●ひとつめの出来事につづく出来事は戦場で起こる。ひとつめの出来事とふたつめの出来事との対照はある意味で分かり易い。人工的で、平均化、抽象化されたベルリンの住宅とは異なる、戦争という非日常的な状況、しかも自然のなかに、A2はいる。
《するとそこにはブレンダ連山が、むりやり折りたわめたガラスさながらに、ほのかに青くかがやきながら夜空にそばだっているのが見えた。そしてほかならぬこの夜々には、星はパンチで打ち抜かれた金紙のように大きく、練り粉を焼いたように分厚い感じでまたたいていた。大空は夜になってもまだ青く、その中央には純銀または純金の、たおやかな少女めいた上弦の月がかかり、夢見ごこちにただよっていた。なんという美観だったか、ぜひ君にも想像してもらいたいものだ。平穏無事な人生では何ものもこれほど美しくはないのだ。ときにはもうこらえきれなくなって、幸福感とあこがれを胸にふくらませながら夜のなかをはいずりまわることもあった。》
戦場においてA2は、ただ存在するだけで、ベルリンでの黒つぐみ体験に近い感触を味わっているとさえ言えそうだ。次の引用の前者は、ベルリンでナイチンゲール/黒つぐみの声を聴いたベッドのなかの描写で、後者は戦場で夜のなかをはいずりまわる時の描写。両者はほぼ同質の経験のように思われる。
《そして寝室は中空ではなく、ある質料から構成されていた、昼間は存在しない、黒く透明な質料、どこからどこまで黒い感触の質料で、ぼく自身もそれでできているのだった。》
《緑金の色調をたたえて黒ずむ木々のほとりまで来るとぼくはからだをおこしたが、そのぼくの姿はさながら君が見も知らぬほど妖しげに色あざやかな黒色をして、鋭い嘴をさしのべながら悠然ととまっている死の鳥の、羽毛のなかにひそむ一本の小さな褐緑の羽根のようだった。》
ベルリンの集合住宅では、同じ形式の空間の反復が、人々の生活や存在を均質化していた。つまり固有化ではなく抽象化していた。このような種類の抽象化と、この引用部分で語られる《ぼく自身》がどこまでもつづく《黒い質料》の一部となる(非固有化、匿名化する)という感覚とは質的に異なるだろう。しかし、この二種類の異なる抽象化、あるいは匿名化は、質として別モノであってもつながっているように思われる。あるいは、前者が後者を準備している。この小説で、ベルリンの集合住宅のような形式化、抽象化は、単純に否定されているのでもないし、また肯定されているのでもない。そのような空間によってはじめてあきらかになる(顕在化する)何事かがある、ということになろう。一方の抽象化からもう一方の抽象化へ、ナイチンゲール/黒つぐみの鳴き声をきっかけにして、反転的に移行する。《何かがぼくを折りかえしてしまったような気がする》。後者への反転のためには、その前提となる環境として前者が必要だった。この反転こそが出来事であろう。
そしてこの経験は、前の引用で分かる通り、戦場の自然のなかでの経験と同質のものであろう。では、ベルリンで既に一度、このような反転を経験しているA2は、自然のなかでは,ただ夜が来るのを待つだけで同等の経験を得ることができる、ということなのか。しかしここでも、戦場という特異な状況によって強いられる、また別の抽象化が前提としてある。
《思いにふける暇もあればはっと驚くだけの余裕もあるこのような場所で、はじめて危険とは何か、知ることができるようになるものだ。毎日のように危険は犠牲をもとめる、週平均確実に百人中のなにがしか。すでに軍団の参謀将校たちは、まるで保険会社かなんぞかのように事務的にそのことを計算に入れている。もっともだれしもがそうだったのだ。だれもが本能的に自分の幸運を信じており、たとえ雲行きが少々怪しくても自分は大丈夫だと思っているのだ。それは、砲火にさらされた生活をつづけているときに感じられる、例の奇妙な落ち着きなのだ。》
ここでは、個々の存在、あるいは「死」が、《週平均確実に百人中のなにがしか》という風に確率的に捉えられ、その感覚はひろく共有されているという。私という存在が、《百人中のなにがしか》である限り、自分の死の可能性は数パーセントに過ぎず、それは恐怖に値しない。自分が、生き残るか死んでしまうかの二者択一しかない一個の人間であると認識するのではなく、常に数パーセントの死の可能性のある大勢のうちの一人と感じることで、恐怖から距離をとる。
ここでも、自分を確率化することによって得られる抽象化と、夜のなかで自分を、死の鳥の小さな褐緑の羽根の一本だと感じること(非固有化)とは、あくまで別モノである。しかし、別モノではあっても、まったく無関係だというわけではないものとして並置されている(ここでも、個の確率化が単純に否定されているのでも、肯定されているのでもない)。二種類の異なる匿名化(非固有化)がある。
だが、このような「死の確率化」によって得られる抽象性は、反転的に、次のような感覚も呼びおこす。
《もちろんときにはこんなこともある、つい二、三日前に会ったばかりの見知りごしの顔に、突然また会いたくてたまらなくなる、しかしその顔はどこにもない、というようなことも。するとその顔は常識では考えられないほどの衝撃を心にあたえ、ほのめく蠟燭の光のようにずっと宙にうかんでいる。》
一方で、個を確率化することで死の恐怖を遠ざけ、しかしもう一方で、(結果として)その確率的な死が訪れてしまったある個(顔)が、非常に強い力で回帰してくる。死んだ者こそが強い固有性をもつという逆説。おそらくこの二極が同時にあることが、この後の出来事を準備する。
●あるとき、《平穏な陣地の上空に、一台の敵の飛行機が飛んで来》る。《すると一瞬にして空は砲兵隊のうちあげる榴散弾の白雲に、点々と班痕を印された。そそくさとパフではたいたような感じだった。》そしてA2は、飛箭が降ってくるひびきを聴く。飛箭とは、飛行機が投下する《先のとがった鉄棒で、(…)もし脳天に命中すれば、足の裏まで突き抜けたのだが、だいたいそう命中するものではな》い、というものだ(当たる「確率」は低い)。だがA2はそのとき、《いかなる蓋然性にも裏づけられない直感》によって、自分に《あたるぞ!》と思う。この直感は確率による抽象化を押し返す。
《どんな気持ちだったか、君にわかるだろうか? 恐怖の予感ではなく、かつて思いもかけなかった幸福に似ていたのだよ! 最初、このひびきがぼくにしかきこえないというのは、どうもおかしいと思った。それから、この音はまた消えていくのではなかろうかと考えた。しかしそれは消えなかった。まだ非常に遠かったが、それでもしだいに近づいて、遠近法的な意味で大きさを増して来た。ぼくはそっと仲間の顔をうかがったが、だれひとりこの音をききつけてはいなかった。自分だけがこの妙なる歌に耳をかたむけているのだと気づいた刹那、ぼくのなかから何ものかが歌へむかって立ちのぼっていった。それは生の光線だった、上からくる死の光線と同様に無限な生の光線だった。》
《こんな音を聞くのははじめてだ、とぼくはひとりつぶやいた。しかもその音はぼくにむけられていた。ぼくはこの音と結びつき、何か決定的なことが今わが身におころうとしているのだということを、いささかも疑わなかった。心にうかぶ思いのどれひとつとして、生に別れを告げる瞬間に現れるという性質のものではなかった、ぼくの感じたいっさいは未来にむかっていた。》
ここには、あまりにあからさまにひとつめの出来事との対照があるように見える。
飛箭が、他ではない《ぼく》に向かって落ちてくるという予感、そして、そのひびきが自分にしか聞こえていないという事実、それは明らかに「ぼくの死」を示す兆候であるにもかかわらず、それが、死を押し返し、それと釣り合うかのような、《無限の生の光線》を《ぼく》の側から放出させる。このあまりにあからさまに超越的な、まさに天から降ってくる垂直的な経験を、どう捉えたらよいのだろうか。この出来事は、前述した、生の側からみた「死(個)の確率性(非固有性)」と、死の側からみた「死(個)の固有性」との、非対称的な対照という構図とどのように関わるのだろうか。
飛箭が自分に「あたる」と確信することとは、確率性としてあった死が、「お前だ」と言って明確に自分に向けられたことを感じるということだろう(固有化)。そのような指名は、確率として、霧のように分布して抽象化されていた死(個)を明確に結晶化する。では、A2はそこで、自分自身を、固有性を(そのような意味での「生の光線」を)、獲得したということなのだろうか。もしそのように受け取るとすれば、この小説はあまりに分かり易く、また、安易でもあるという印象を免れない。それに、それは、今までの小説の展開を裏切るものでもあるように感じられる(ここまで、形式化、抽象化、匿名化を、性急に否定するのでも肯定するのでもなく、本来性、固有性の喪失を否定するのでも肯定するのでもなく、進行してきたように思われる)。
だからそうではなく、ここでは、他ならぬ私に「死」を与えるであろう垂直的な落下と、かならずしも私には限定されない「生」の湧出という垂直的な上昇とが拮抗する、その拮抗が(飛箭の「歌」として)捉えられているのではないだろうか。死がもつ限定性と、生のもつ非限定性という非対称的なものが、ここでは拮抗する、というか同時にあらわれる。死の確率化による個の匿名化ではなく、死による指名(固有化)が起こることによって、他方で、生の湧出による個の非限定化が行われる、ということ。死が(他ならぬ)私のもとへ訪れるという予感によって、私の生が、私という限定から逃れてゆく、というのか。
●もうひとつ。ひとつめの出来事では、集合住宅という人工的で抽象化(均質化)された場所に、自然のもの(ナイチンゲール/黒つぐみの声)が訪れることで、ある特別な経験が得られた。ふたつめの出来事では、戦場となった自然のなかに、人工的な技術(飛行機が投下する飛箭)が訪れることで特別な経験が得られた(「神」を感じさせるほどの「高さ(飛行機)」と「垂直性(鋭角的な金属の棒)」は、実は人工的な技術によって可能になる?)。地上にある人工と空からくる自然。地上にある自然と空からくる人工。つまりここまでは、人工のなかに射し込まれる自然、自然のなかに射し込まれる人工という、異質なものの陥入こそが、なにかしら特別な経験を生むということになっている。つまりここにあるのは(自然と人工、固有性と匿名性、限定性と無限等の)対立ではない。
●これにつづいて、みっつめの出来事が付け加えられる。みっつめの出来事は、それ自体としてもっとも分かりづらいものであり、同時に、前のふたつの出来事との関係も、分かりづらい。
つづく。