●一昨日からつづく「黒つぐみ」についての話はちょっとお休み。
●『輪るピングドラム』7話。ぐいぐい来てる。「生存戦略」はとうとう生殖から産卵(出産)というところにまで達した。荻野目苹果はアニメ史上かつてないヒロインへと成長しつづける。かつて、ペンギン帽のイリュージョン空間で落とし穴から這い上がり、肋骨階段を駆け上りさえした苹果は、今回、床下(妄想)と床上(現実)との境を越えて上昇しようとする。浮遊し浮上するのではなく、水没しては、這い上がる女、苹果。彼女を這い上がらせる動機は日記-ももか(姉)であるが、這い上がる力は苹果を苹果として生成させ、変化させる。どこまでもぐいぐい押してくる苹果の行動力は、その「押し」の方向性は異なるとしても、『未来少年コナン』のコナンを想起させさえする。
●苹果は複数の層を同時に生きる。姉の日記に忠実であろうとする日記-妄想の層(床下での多蕗との同居)、晶馬とのペアを形作る、行動の現実的な側面の層、そしてライバルであるはずの時籠ゆりをモデルとして発動される劇場-妄想の層(他にも、水棲動物やぬいぐるみと共にある妄想の層などもある)。これらの層は独立しながらも互いに影響を与え合う。三つめの劇場-妄想の層に刺激されることによって(お世継ぎでも産んでみることね…)、第一の日記-妄想の層と第二の現実的な層との境界(床)が越えられようとする。
(時籠ゆりが登場すると、苹果はカエルと関係づけられ、かつ、排泄物と関係づけられる。あるいは、苹果は、動物、排泄物等のアブジェクション的な位置に格下げされる。それと、苹果はペンギンによってゴキブリとも関係づけられる。)
●現実的な層において、多蕗と苹果の距離は決定的にひろがり(多蕗と時籠の婚約)、晶馬と苹果の距離はますます近づく。
●現実の層というのは仮の言い方に過ぎず、三つの層は苹果においてすべて現実であり、同時に他のすべての層に対しての反映でもありえる。今回彼女は、現実の層において、日記-妄想の層を反映(先取り)するかのように、晶馬との間で出産を経験することになる。男女の役割が逆転して、晶馬の出産に苹果が立ち会うかのような形で(生命の神秘というより、アブジェクション的なものとしての出産シーン)。言い換えれば、苹果が多蕗との間で望むことは、現実的には晶馬との間で実現する。
●だが、晶馬が苹果と行動を共にするのは妹(陽毬)のためであり、苹果は多蕗に近づくために晶馬を利用している。そもそも、苹果が多蕗に近づこうとするのは、自らを亡き姉の代理とするためである。「現実」は、様々な「代理(非現実)」に媒介されることで動いている。
●苹果は、自分と多蕗と時籠との関係を、ミュージカル風の妄想によって把握している(特にバードウォッチングの回)。つまり、女優である時籠はライバルであると同時に苹果にとって「欲望のモデル」でもあり、苹果の欲望-妄想に「形を与える」存在でもある。苹果は、多蕗を王子様とし、自らがお姫様であることを欲するが、その欲望に形を与えているのは、お姫様を演じている女優、時籠である。時籠が演じるお姫様を媒介とすることで、苹果はお姫様の位置を「欲望する(思い描く)」ことが可能になる。その欲望の形態は、日記-妄想の次元を遂行しようとする(不定形な)彼女の力を裏打ちする。しかし同時に、時籠が存在する限り、苹果自身がお姫様の位置を得ることは出来ない。オリジナルお姫様である時籠によって、苹果のお姫様妄想が作動するのだが、オリジナルが存在する限り、それは妄想の位置に留まる。
ここで、演劇-劇場が、単調なメタレベルに留まっていないことは重要。演劇の次元でお姫様を演じる時籠は、苹果の妄想を形作るだけでなく、現実の次元へと越境し、多蕗(王子)を奪ってゆく。モデル(メタレベル)がそのまま「現実」へと降りて(混線して)くる。
●現実的な層においては、多蕗との距離は決定的となり、劇場-妄想の層においては、原理的に時籠に勝つことは出来ない。この時、日記-妄想の層があきらめられるか、そうでなければ、他の層から逃避して日記-妄想の層へと引き籠るか、というのが通常の反応であろう。しかしここで苹果は、日記-妄想の層をあきらめることなく、現実的な層と日記-妄想の層との境を越え、いわば双方を「違法(裏道的)」なやりかたで交雑させようとする。これこそが苹果というヒロインの特異性であり、その力であろう。
まず、晶馬とのペアでオカルト的な方法が模索される(ここで、晶馬との間での---カエルを介した---疑似出産が経験される)。しかし、妄想を現実化するのに超自然的な手続きがとられるというのは、凡庸な成り行きであろう。ここで、「惚れ薬」をつくるという目的から逸脱して、そのプロセスとして(結果として)出産が疑似体験されることが重要となる。行為の目的と、その効果は常にズレてゆく。
疑似出産というパフォーマンスが、劇場-妄想の次元へ波及して「そんなに口惜しいのならお世継ぎでも産んでみることね」という時籠姫の発言を生み、それに押されるようにして、日記の層から現実の層への越境として、床を突き破って「夜這い」が実行される。
(ここで、多蕗と結ばれる-結婚するというあいまいな夢が、多蕗と結ばれる-性交する-子供をつくるという、具体的で生々しい欲望へとシフトしつつある。)
●複数の層が同時に(同等に)進行しつつ、それらが互いに共鳴するだけでなく混線もする関係が、同時に捉えられている。複数の層の関係が、けっして単調な階層的関係に固定されず、絶えず流動的に動いている(正統ではない交雑もアリ)。「ピングドラム」という作品が突出して優れている点は、まさにここにあるように思われる。ペンギンたちも、普段は物語の主線とは関係のない拡散的な動きをしているのだが、時折ふっと、予想外の形で物語に対する決定的な介入を行うことがある(カエルの卵を食べてしまう二号や、ペンギン帽回収で活躍するする一号など)。ペンギンは、人からは見えないのに、その行為の結果はちゃんと現実に影響をおよぼすという、あいまいな位置づけがなされており、つまりそもそも混線的な存在である。
●苹果-晶馬のラインがのっぴきならない展開をみせる一方、冠葉-夏芽のラインは、まだ「ほのめかし」の段階を脱していない。そしてその間、陽毬はひとりで家で何をしているのか。あと、苹果と夏芽との間にどのような関係があるのか、あるいはないのか、が、気になる(夏芽の電話の相手は?)。
●最近たのしみにしているアニメに、「ピングドラム」のほかに『シュタインズゲート』がある。こちらも、まだDVDで7話まで観ただけだけど、月末になるとDVDが出ているんじゃないかと毎日ツタヤをのぞきに行ってしまうくらい。
ピングドラム」が、恋愛好き、運命論好き、かわいいもの好き、オマジナイや占い好き、オカルト好き、パワースポット好き、ドロドロやグロ好き、直感的で関係妄想好き系的な女の子の話だとすれば、「シュタインズゲート」は、メカ好き、模型好き、疑似科学好き、陰謀論好き、偽史好き、数学好き、潔癖的で誇大妄想好き系的な男の子の話で、対称的な感じ(女性キャラがすごく多いのだが、この、女性キャラの無駄な多さが逆に男の子っぽい)。オタク系以外の観客をはじめから排除しているかのような意図的にめいっぱい「痛い」感じや、構えがすごく大きい話なのに、舞台としては実際には(七話までの段階で)秋葉原から一歩も出てないチマチマ感とのギャップとかも、面白い。