●『輪るピングドラム』第10話。絵が乱れていたし、出来としてはイマイチかなあ、という感じの回だった。しかし、また新たな登場人物が出てきた。ペンギン帽をつけるもう一人の子供、夏芽マリオとは、夏芽真砂子の子供なのか弟なのか。そしてマリオと陽毬との関係は?
マリオの登場によって、夏芽が日記を欲しがる理由は分かったようにも思えるのだが、とはいえ、日記は夏芽の真の目的というよりも、「まず手始め」の目的であるようだ。双子が陽毬のために必死で「日記」を手に入れようとする(冠葉の動きはいまいち謎だが)のに対し、夏芽の行動は自らをハンターと名のり遊戯的にみえるし、何か別の組織とつながっている感じもある。プロジェクトMの最終目的は日記ではなく、夏芽が冠葉を狙う目的も別にあるはずで、そうでなければ、わざわざ「恋愛被害者の会」を設立させた上でその一人を階段から突き落とす必要などなかった(どうやら夏芽と苹果とは関係がないらしく、突き落としたのも苹果ではなかったようだ)。
●二人のペンギン帽に対して一つの日記。これはつまり、二つの死(死体)に対して一つの命ということなのだろうか。そうだとすれば、この作品の「生存戦略」とは、一つの命を二人で取り合うことでもあり、それは「銀河鉄道の夜」の「苹果」のパートに出てくる「ほんとうの幸」のまったくの裏返しということになる。父に会うために船に乗るおさない姉と妹とその家庭教師の青年。そしてその舟は事故に遭う。
《けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまた、そんなにして助けてあげるよりはこのまま神の御前にみんなで行く方が、ほんとうにこの方たちの幸福なのだとも思いました。》
とはいえ、前述したように夏芽の真の目的は「日記」ではないように思え、だとすれば、陽毬が生きるかマリオが生きるかという単純な二者択一という展開にはならないだろう。
●しかし何故、苹果の姉が書いた日記が命と引き換えになるほどの重さをもつのだろうか。それはおそらく、姉の死に方に関係するのだろう。
●陽毬が忘却する存在であるならば、冠葉は必ずもそうではない。少なくとも夏芽が「思い出せ」と要求したことを、冠葉は何も忘れていない。夏芽が要求したことはすべて、前もって冠葉と陽毬との会話の中で既に語られていたことだ。だからここで「思い出せ」とは、もう一度そのことの意味を改めて意識し直せ、という程度のことだろう。一度目は言葉として、二度目はイメージとして。別の言い方をすれば、冠葉から記憶を引き出したのは夏芽であるより、陽毬であるのだ(「結果としてそうなった」のか「意図して」のことなのか分からないが、陽毬と夏芽は共謀していたことになる。事件は、陽毬が帰宅して病院から姿を消した後に起こるのだし)。
陽毬の記憶が、地下61階からさらに下に垂直下降しなければあらわれないほど奥深くに封印されてあるのに対して、冠葉のそれは病院の地下の暗がり程度の深さしかない。それはそもそも秘密のようなものではないだろう。だが、その記憶への接近には、囮による誘導が必要である程度の「抵抗感」はあった、と。
表現としても、屋上から地下までの下降の過程は、陽毬のエレベーターのように垂直にストーンと降りてゆくのではなく、時間をかけて、かったるそうに階段を下りてゆく。下降は、階段を下りている場面(この場面は絵が止まっている)の上から下へのパンと、廊下を歩く右から左へのパンの繰り返しで示されており、しかも壁には白黒の横縞が引かれていて、下へ降りて行くというよりも、横へ移動してゆくという(距離的な)印象が強いものだった。
だからここでの夏芽による冠葉への攻撃は軽い嫌がらせ程度のもので、夏芽が言った通り、まず「日記」を手に入れるためのトラップに過ぎなかったと考えた方がよいだろう(しかし、落下してきた日記を拾ったのは、シルエットからして夏芽でもマリオでもないようだ)。
●夏芽は自らを「ハンター」と呼ぶ。では何を狩っているのか。今までの展開から考えれば、それは女性の恋愛に関する記憶(あるいは「男」への欲望)であるように思われる。今回、「思い出せ」と要求していたのも、夏芽と冠葉との間に実際にあったことの記憶というよりも、今まで冠葉と付き合った数多くの女たちの記憶から(ペンギン玉によって)抽出したものであると解釈することも出来る(とはいえ、冠葉は「ペンギン玉」について何か知っている様子なので、二人は過去に何かしらの関係はあったのだろう)。であるとするならば、夏芽の狩りの最大の目標は、前回みられたような膨大な記憶の貯蔵庫をもつ(しかしその記憶を封印させている「眠り姫」である)陽毬ということになるのだろうか。
●「眠り姫」といえば、晶馬は前々回につづいて今回もまた睡眠薬で眠らされる。眠り-無自覚という点では、晶馬は陽毬に近い位置にいる。無自覚なまま引っ張りまわされる晶馬と、無自覚なまま眠りつづける陽毬。行動する無垢と行動しない無垢。汚れ役(冠葉・苹果)-無垢(晶馬・陽毬)。だからこそ、冠葉-陽毬、晶馬-苹果という交差ペアの距離が近づく。
「ピングドラム」は基本的に、男をモノにしようとして策を弄する女たちの話だと言える。苹果と時籠は多蕗をめぐって争い、夏芽をはじめ多くの女たちは冠葉を追いかける(苹果は父を追いかけてもいる)。ただ陽毬だけが、追いかけたり策を弄したりする必要もなくあらかじめ男たち(兄だけど)の十分な愛を得ている座にある(自らの座でやすらかに眠りつづける)。しかしそこ(その眠り)にはおそらく、ある喪失と忘却が作用している。そこで何かが起こり、何かが忘れられた。それは前回の陽毬の回想-夢によっても提示されていない。ただ陽毬に「深さ」があることだけが提示された。兄たちの陽毬への過剰な愛はそれを埋めるために作動しているかのようだ。そしてそのことと、トリプルHの崩壊や両親の不在と関係があるのだろう。
とはいえ「ピングドラム」が面白いのは、何かしらの謎はあるのだろうけど、謎を「謎めいた」調子で提出するのではなく、むしろ謎があることを忘れさせてしまうかのように、無数の動きががちゃがちゃと錯綜しているところだと思う。謎の謎めいた調子によって人を誘引するのではなく、謎から目を逸らさせ、謎めきを解体しつつも、そうこうしているうちにいつの間にか謎(深さ)の隣にまで連れていかれている、かのように進んでいる(今のところは)。
●作品の基本は、苹果の水平的な展開力と陽毬の垂直的な謎の深さが拮抗することで成り立っているように思う。苹果と同様の水平の軸に晶馬がいるが、苹果が、世俗(自覚)的で水平(運動・表層)的であるのに対し、晶馬は、無垢(無自覚)で水平(運動・表層)的であろう。冠葉は垂直性(謎・深さ)を持つという意味でどちらかというと陽毬の軸にいるが、陽毬が、無垢(無自覚)で垂直(深さ)的であるのに対し、冠葉は、世俗(自覚)的で垂直(謎)的であると言える。だから双子の兄による媒介によって、苹果(水平)と陽毬(垂直)が結びつく。
このような人物たちの複雑なあり様とその関係によって、深さがたんに謎や階層構造として示されるのではなく、深さ(垂直性)が水平的な関係の網の目として提示されるということが可能になるのではないか。