●ちょっと昨日のつづき。「ピングドラム」について。
床下に入り込んだり、イリュージョン空間で陽毬のペンギン帽子を奪ったり、様々な妄想の次元(イメージ)を現実平面と接合させたりという、並外れた展開力(行動力)をもつ苹果も、垂直的な運動(日記の落下、そして自身の水没)に対しては無力である。一方、苹果の展開力に受動的に(強引に)引きずられるばかりの晶馬だが、苹果が垂直運動による危機にある時は、その能動的な力を発揮して彼女を助ける(交通事故の身代わりとなり、水底から救い出す)。
陽毬は、今までのところ純粋に垂直的な存在であり、秘密や記憶の深さを匂わす以外、現実的にはほぼ何もしていない。彼女の記憶は文字として図書館の底深くに眠っていて、それはまだ断片的なイメージしか浮上させていない(それが「文字」としてあるという点で、ももかの「日記」とのかすかな接点が感じられる、文字-記憶-読まれるものとしてのももかと陽毬、それを読み(解釈し)、語り(騙り)、行為する(現勢化する)ものとしての苹果)。だが陽毬が眠り姫として純粋に垂直的な存在でいられるのは、冠葉のサポートによると言える。彼女が安心して眠る「家」を維持するために、冠葉はそうとうヤバイ仕事をしているようだし、ペンギン帽子が失われた時に、大活躍してそれを奪回したのも彼だった。
晶馬は、垂直的落下からの救出を通して苹果と垂直性を媒介し(水平的なものが「深さ」に触れる)、冠葉は、純粋な垂直的存在に現実的な存在基盤を与えることで水平性との接合の条件を準備する(垂直的なものが「広がり」へと接続される可能性をひらく)。そして、晶馬(無自覚で行動-媒介的)と冠葉(自覚的、策略的で行動-媒介的)は、互いを反転的に照らし合う双子である。ここで、苹果--晶馬--冠葉という、水平性から準-垂直性へと延びてゆく勾配と、陽毬--冠葉--晶馬という、垂直性から準-水平性へと延びてゆく勾配がクロスして重なり、苹果--晶馬×冠葉--陽毬という、裏表がひっくりかえって繋がるようなメビウス的な勾配が出来る。苹果における水平的なセリーと、陽毬における垂直的なセリーという二つの系列に、晶馬×冠葉というキアスム的媒介によって交差・交錯する通路が開く。
それによって、広がりがいつの間にか深さとなり、深さがいつの間にか広がりに接続しているような、(例えばジャクソン・ポロックの絵画のような)混成的な作品世界が可能となる(はず)。ここで深さと広がりは対立し拮抗するのではなく引き合いながらも混じり合う。
とはいえ、苹果そのものが既に媒介的存在であり、彼女の水平的展開力は、自身を、ある関係・構造を(再帰的に)設立させるための捨て駒(最終的には消滅すべき媒介者)と位置付けているところからきていた。彼女の目的は、自分が、ある関係構造のなかで「ももか」の位置として機能することのみであろう(しかしその目的のための行為が様々な逸脱とズレを呼び込み、多様な水平的展開へと導かれる)。だからここには、もう一つ別の、垂直性への通路があると言えるのかもしれない。それは、苹果--日記--ももかという水平性から準-垂直性への勾配をつくり、その先にある「過去・運命(深さ)」の方へ延びている。だがそこへの「つなぎ」であったはずの日記は、二度の「落下」という、直接的に垂直的な運動によって失われてしまう。
(「ピングドラム」前期では垂直的な動きは抑制されており、そのため地下鉄への階段も省略されるのだが、例外的に冠葉の元カノがエスカレーターから落下させられる場面があり、このエピソードが夏芽と繋がっていることから、夏芽が垂直軸寄りのキャラクターであることが分かる。)
日記の消失によって苹果の水平的推進力が失われて、おとなしくなっちゃったりするとつまんないなあと思うのだが、予告の台詞では、「日記がなくなっても運命は変わらない」とか言っていて、まだ暴れてくれそうなので、先がどうなるのか楽しみ。
(ここでどうしても分からないのが、昨日もちょっと書いたけど、苹果にとってのみ意味があるはずの、ももかのたんなる妄想日記とも言えるものが、何故、この作品の別の人物たちの間をも循環するような意味をもつのか、ということなのだが…)
●あと、病院の食堂のような場所で、陽毬が冠葉の過去の女性に関する記憶を引き出した会話の後、いったん家に戻ると言って陽毬が冠葉の頭にそっと手をのせるカットが気になった。この陽毬の「手」によって、冠葉の地下(記憶)への潜行の起動スイッチがオンになったのではないか、と。
●「ピングドラム」と同じくらい楽しみにしているのがレンタルDVDで観ている『シュタインズゲート』なのだが、今日、なんとなくテレビを見ていたら中川翔子が「トットゥルー」と言っていた。