●お知らせ。明日(26日)の東京新聞夕刊に、栃木県立美術館でやっている「画像進化論」のレビューが載る予定です。
ムージルの「黒つぐみ」は、文としては例えば初期作品の「静かなヴェロニカの誘惑」よりはずっと読みやすいが、作品としてはかわらず難解だ。
A1とA2という幼馴染の二人。A2がA1に語った話を、第三者の語り手が読者に向けて語る。この三人の人物は、(強引に読めば)すべて同一人物だと解釈することも可能だし、あるいは自然に考えれば、(A2の話の直接の聞き手なのだから)A1=語り手ではないかとも思われる。しかし語り手はまず、自らの存在を謎のように示すことから語り始める。
《三つのささやかな物語---その直接の語り手はだれかということが、肝心なのだが---、それを物語るために、わたしはまずふたりの男のことに触れておかなくてはならない。》
冒頭で、直接の語り手(A2)ではなく、《わたし》が語るのだと宣言するこの語り手は、しかしこれ以降はことさら自らの存在を誇示することはない。しかしこの小説の登場人物はすべて「語り手」であるとも言え(直接の語り手A1、A1の話を受けてそれを第三者に伝えたはずのA2、そして第三者としての語り手の《わたし》)、「語り手」として一本化されるべき人物が「(物語内の)語り手/物語内では聞き手であるが、それを物語外へと媒介する語り手/(メタレベルの)語り手」と三つに分裂していることによって、奇妙な振動が発生し続ける。
そもそも、ここで人物は、その人物の固有性としてではなく、関係として捉えられている。
《ふたりの男というのは幼なじみだった。名前は、A1、A2としておこう。わざわざこんなことをいうわけは、実のところ、幼なじみの友情とは、年をとればとるほどに奇妙になるものだからである。長い年月がたつうちに、ひとは、脳天から爪先まで、皮膚の細毛から心臓にいたるまで変わってしまう、しかしおたがいの関係は、ふしぎなことにいつまでも変わらない》。
ここで問題となっているのは、《幼なじみ》という関係の不動性と、それに対する、それぞれの人物の中身の流動性(不確かさ)である。もっと言えば、本作で問題となるのは「中身」ではなく、「その人物に固有の何か」という問題設定では捉えられない何ものかなのだ。
とはいえ、二人の人物の性質の違いというものも記されてはいる。
彼らの学校にある教会には《塔の尖頂の下には燭台のような石造りの露台があったが、目もくらむばかりの高さにあるこの手すりの上で》、無神論的な学生たちは《さまざまな曲芸》を演じたりしていた。それは《目を下にむけたまま手すりの上で、ゆっくりと筋肉を圧迫しながら五体を宙に浮きあがらせ、ゆらめきながら両手で立っている》というようなこと(逆立ち)だ。そして《たとえばA1はそれをしなかった、これに反してA2は(…)そもそもこの肝だめしを発案したのは、ほかならぬ少年時代の彼だった》とされる。
しかし、その程度の違いなど人物の固有性とは言えず、交換(変更)可能なものに過ぎないということも示されている。大学時代、A1は労働運動に没頭し、A2は森林技師を目指していたのだが、《大戦後》に再開した時、二人はそれぞれまったく別人のようになっていた。
《A2はロシアでの事業をもう終えていた。その事業がどうなったのか、彼はほとんど語らず、今はある大企業の事務職について、一応何不足ない市民生活をいとなんでいたものの、どうやら相当な損害をこれまでにこうむっていたらしかった。ところで彼の幼なじみのほうは、そのあいだに、階級闘争家からある新聞の発行者へと転身していた。社会の安寧、というようなことをさかんに書きたてる新聞で、社主はひとりの株屋だった。ふたりはそれ以来たがいに軽蔑しあい、しかも離れがたい絆を感じていたが、やがてまたわかれわかれになってしまった。》
《ところで彼の幼なじみのほうは》などという言い方に、A1と語り手との関係の奇妙なよじれがみてとれるのだが、それはともかく、互いに別モノへと変化し、互いに軽蔑しあいながらも、なお、絆を感じている、幼なじみという関係がある。それぞれの人物の内実の変化(つまり「時間の経過」)とは無関係に、「幼なじみ」という関係-形式だけが持続している。思想信条、生活習慣、個性や人柄、年齢などの内実は交換、変更可能であり、時間とともに変化し、しかし内実とは関係なくそれぞれの項の間の関係-形式(幼なじみ)が持続する。本作は、そのような世界、そのような認識、そのような人物たちのもとに起こる、ある種の形式主義による物語であろう。
●ひとつめの出来事は、ベルリンの集合住宅で起こる。
《階ごとに夫婦のベッドが層々と重なりあっている。というのも、寝室はどの家でもみな同じ位置にあって、しかも窓際の壁と浴室側の壁と洋服箪笥側の壁とが、ベッドに位置を、ほとんど五十センチの狂いもないほど厳密に規定しているのだから。》
《愛、睡眠、誕生、消化、予期せぬ再会、心労にみちた夜な夜なと楽しいまどいの夜な夜なが、これらの家のなかでは、さながら自動食品販売機のなかの巻パンの柱のように積み重なっている。》
このような背景は、人物たちをますます、他の誰でもありえた、誰でもよい誰かへと抽象化する。しかし、幼なじみという関係は、その内実とは別に関係を(つまり二人の絆と非対称性を)保存するが、ここでは、形式の抽象性が内実(生活)そのものを同質化させる。この同質化は、互いを似通わせながらも、どちらかというと分離する。
そのような生活の、いつもと変わらぬある夜に出来事は起こる。
《そのとき、近づいて来た何ものかがぼくを呼びおこした。近づいて来たのは音だった。一度、二度と、眠気に呆然としながらもぼくは確認した。それからその音は隣の家の棟にとまり、そこから海豚のように宙に舞いあがった。花火のように、といってもよかっただろう。つまり花火という印象があとあとまで消えなかったのだから。落下しながらそれは窓ガラスに軽く触れてぱっとはじけ、大きな銀の星のように奥底へと沈みこんでいった。》
ナイチンゲールがうたっているのだ!》
《これは遠くからはるばるぼくのところへ飛んで来たのだ、と思っていた。ぼくのところへ!!》
他の誰とでも交換可能な誰かではなく、ナイチンゲールは他ならない「ぼく」のところへ飛んで来た、とA2は感じる。その時A2は、自分の存在が裏返るような感覚を得る。
《それを説明するのはひどくむつかしいのだが、そのときのことを考えると、何かがぼくを折り返してしまったような気がする。ぼくはもはや彫像ではなく、内部へ陥没した存在だった。》
しかしそのようなひと時の昂揚のあと、その反動のような消沈が訪れる。
ナイチンゲールなんてとんでもない、黒つぐみだったのだ、とぼくはわれとわが胸にいい聞かせた。君が今いおうとしている、そっくりその通りにね。黒つぐみというやつは、知っての通り、ほかの鳥の鳴きまねをする。ぼくはもう目がさえきっていた、静けさがぼくにはやりきれなくなってきた。》
そしてそのような気分のなかで、A2は隣で眠っている妻の姿を見る。
《幾年このかたぼくはおまえを愛してきた---とぼくは考えた---この世のなにものにもかえがたいまでに。そして今おまえは、愛の燃えがらのように横たわっている。おまえはもうぼくにとってすっかり気うとい存在になってしまった。ぼくは愛の反対側の端にぬけ出てしまった。これは飽満から来る嫌悪感だろうか?しかしぼくは、嫌悪感を味わったおぼえは一度もない。こんなふうにその気持ちを説明したらいいかと思う。つまり、ある感情が山にトンネルをうがちでもするように、ひとつの心臓に穴をあけて行く、すると山のむこう側には同じ谷間や同じ家々や小さな橋のある別の世界がひろがっている、というわけだ。》
おそらく、黒つぐみの話と妻の話が並んでいるところに、ある種の難解さがあらわれている。これは決して、泣き声の主がナイチンゲールではなく黒つぐみ(偽物)でしかなかったのと同様に、妻への愛も何かの錯覚であったということへの失望が語られているのではない。ここでは、たんに愛の時間が過ぎ去ってしまったということが語られている(「愛」そのものはすこしも疑われていない)。つまりここでは、時間とともに内実がすっかり変わってしまうという、他の誰でもあり得た、交換可能な誰かという主題と、深く重なりつつもぴったりと重なるわけでもないもう一つの主題があらわれている。《山のむこう側には同じ谷間や同じ家々や小さな橋のある別の世界がひろがっている》という表現(これは前述した、存在が《折り返され》たという感覚と関係があろう)が、それを語っている。そして、この二つの主題は、次のような部分によってつながる。
《(…)もしほんとうに黒つぐみにすぎなかったとしても、---とぼくは思った---それがどうだというのか! いや反対に、ぼくをこれほどまでに狂喜させたものが、なんの奇もない一羽の黒つぐみにすぎなかったということ、ほかならぬこの事実こそがはるかに意味深長なのだ!》
ナイチンゲール(固有性・本物)/黒つぐみ(交換可能性・偽者)という対立が問題なのではなく、ここでは誰のものであろうと、何によってもたらされたものであろうと(正統性など保障されなかろうと)、集合住宅という形式に規定されたものであろうと、《狂喜(愛)》そのものが問題である。とはいえしかし、その≪狂喜(愛)≫は定着されず、過ぎ去ってしまう。ここに、関係そのものが関係を規定するような「幼なじみ」と、愛によって規定される関係との違いが示されている。
そして、それによって浮かび上がる「現在」と「過去」との関係のあり様が、本作の重要な主題としてここに浮上する。
●この一つ目のエピソードで、もう一つとても難解なのが、A2が、どの部屋もまったく同質の生活が営まれているかのようなこの集合住宅に住んでいる時に、とりわけ「両親」のことを頻繁に思い出していたという事実だ。この記述はここまでの時点ではあまりに突飛に感じられ、その意味がうまく飲み込めない。だが、この事実は今後の展開のなかで、一層重要になってゆくと思われる。だがそのことがそのまま、この小説の(終盤の)噛み砕きがたい難解さと関わっている。
《ところで奇妙なことに、ちょうどそこに住んでいたころ、ぼくは度はずれてひんぱんに両親を思い出したものだ。君も知ってのとおり、ぼくはもうそのころ両親となんの交渉も持っていないといってよかった。しかし突然こんな文句が頭にひらめいた---彼ら汝に生命をあたえたるなり。この変な文句が、追っても追っても追いきれない蠅のように、性こりもなく幾度も舞いもどって来た。》
《しかもぼくにとって、きわめて奇妙、というより文字どおりひとつの神秘のようにさえ思われたのは、それを望んだかどうかは別にして、ともかくぼくに贈物がされたということ、そのうえそれが他のいっさいの基盤をなすものだったということだった。》
その内実は流動的であり、交換可能で、裏返りすらするとしても、そのような内実が起こる「場」としてのA2の生命が、そもそも《贈物》として与えられたものなのだ、ということ。そのような感覚が、存在そのものを形式化、抽象化するような集合住宅での生活によって得られる。
つづく。