西尾維新の「戯言シリーズ」がアニメ化されるという話だ。ぼくは西尾維新の小説は、『クビキリサイクル』『クビシメロマンチスト』『クビツリハイスクール』『きみとぼくの壊れた世界』の四冊しか読んでいない。最初の三冊を読んでとても興味を持ち、でも四冊目で醒めた。最初の三冊は「戯言シリーズ」だ。とはいえ、どんな話だったか、今ではほぼ憶えていない。
2002年の後半から2003年の前半くらいの時期に、西尾維新佐藤友哉舞城王太郎といった、当時旬であった作家たちの作品を読んだ。これらの作家のなかで、西尾維新はもっとも新鮮に感じられた。とにかく、こんな変なもの今まで見た事ないという感じだった。でも、もっともはやく醒めた。そしてその後、2011年にアニメ『化物語』を観るまではほぼ忘れていた。
化物語』の最初の話「ひたぎクラブ」は、とても印象的で、「物語シリーズ」のすべてが面白いとはとても言えないものの、最初のインパクトによって、現在までつづくシリーズをずっと観つづけてはいる。最初にすぐ醒めたようには、醒めていない。
確かに、「戯言シリーズ」の最初の三冊は面白かった、新鮮だったという感じは残っている。四冊目で醒めたけど、「きみとぼくの…」は「戯言シリーズ」ではなかった。そして、「戯言シリーズ」はその後もつづいていた。
自分の過去の日記を検索してみたら、『クビシメロマンチスト』は叙述トリックのミステリであるようだ。叙述トリックだから映像化は無理、とは言えないとしても、かなり上手くやらないと残念な感じになってしまうのではないか。西尾維新原作のアニメは、「物語シリーズ」の他に『刀語』があるが、こちらはぼくにはまったく面白くなくて、途中で観るのを止めてしまっている。
以下、2003年2月11日火曜日の「偽日記」から引用します。これを読んで、「戯言シリーズ」をちょっと読み返してみたくなった。

西尾維新の『クビシメロマンチスト』。この小説の面白いところは、あきらかな記述の軋みがみられるところだろう。(以下、ネタバレになってしまうので注意。)この小説は、ミステリとしては記述上のトリックが仕掛けられている。つまり、信用出来ない語り手というやつだ。しかし、あくまでミステリとして読むとするなら、それは失敗していると言うべきだろう。読み進めていると、明らかに異様な細部があり、その異様さによって、ここには何かしらのトリックが仕掛けられているだろうということがバレバレだからだ。(そこにトリックを仕込む関係で、その部分が異様なものとなってしまっているのだ。)しかしその異様さが生み出す軋みや歪みこそが、小説全体にある異様な緊張感を漲らせているように思う。一応、最終的に謎が解けることで、この「歪み」は合理的に納得がゆくのだが、しかし、最終的に説明されることが、読んでいる途中に感じていた歪みの感覚を解消してしまうことはない。
●主に歪みは二つある。第一は、葵井巫女子(「あおいいみここ」と読む。すごいセンスだ。)の、あまりにもあからさまな、極めて積極的である「好きだ」というアプローチに対して、話者である「いーくん」が、まるで「意地でも気づくものか」といわんばかりに、徹底的な鈍感によって処するところだ。これがもし、外から眺めた客観的な描写によって描かれていたのならば、いーくんは「意図的に気づかないふりをしている」と読めるだろう。しかしこの小説は「ぼく」という一人称で書かれているので、「ぼく」が気づいていない以上、読者は「気づいていないものとして」読むしかない。これはどう考えても無理がある。葵井巫女子というキャラクターが、徹底して裏表のない、思ったことを素直に表に出すようなキャラクターとして造形されているので、その無理は一層際だってしまう。「ぼく」である「いーくん」が、葵井のアプローチに気づいていないはずはないのだ。にもかかわらず、「ぼく」は一貫して気づいていないこととして強引に話が進められる。このことが、葵井のぶっとんだ(コミカルで愛らしくもある)空転ぶりを物語に導入し、そのキャラクターを際だたせるのと同時に、話者である「ぼく」の、無意識的な(と読むしかない)他者への「拒否」の、異常とも言える(歪んだ)強さが強調される。謎解きが終わった地点からみると、「ぼく」は明らかにかなりはやい時点で葵井の「気持ち」を察しているとしなければ辻褄が合わなくなる。しかし物語の進展上は、あくまで「気づいていない」こととしなければスムーズに話が運ばない。ここで物語の設計上の齟齬が生じ、記述のやり方としてフェアとは言えない記述の方法(つまり、徹底して葵井の気持ちを「気づかない」こととして記述が進められる)を強いられることになる。しかし結果として、ここで生じる細部の不自然な歪みこそが、「ぼく」によって語られる、まさに「戯れ言」としか言いようのない底の浅いシニシズムに彩られたセリフの数々などよりも、ずっとこの主人公の人格(=この小説の世界)の歪みを表現しているし、リアルな説得力をもたせてもいる。
●第二の歪みも第一のものと繋がっている。それは葵井が殺された現場での、主人公の異様なまでの「動揺」ぶりだ。ここまでの主人公の人物像を追ってきた読者なら(そして前作『クビキリサイクル』を読んでいる者なら尚更)、この動揺ぶりに不審を感じないではいられないはずだ。「ぼく」は、人の死どころか自分の死にすらも動じないような人物ではなかったのか。まさにこの部分にトリックが仕掛けられているのだが、主人公の異様な振る舞いをみれば、ここになにかが隠されているだろうということは一読してバレバレではないか。まあそれは、とりあえず置いておくとして、他者の死に対してまるで無関心である、あるいは無関心であることを装うことに慣れてしまっているはずの主人公が、自分に対して非常に積極的に関係を迫ってきた人物である葵井の死体を前にした時にだけ、理不尽とも思える得体の知れない動揺を示してしまうという事実に、読者は強い印象(主人公の「ぼく」の「無意識」のうちの強い屈折のようなものと取りあえずは言えるだろう)を受けずにはいられない。ここでは、ネタが明かされてしまえば「なあんだ」というようなトリックが仕掛けてあるわけだが、しかし、トリックが理解できた後でも、ここで感じられた異様な印象は、突出した細部として、依然として残りつづけるだろう。その人物の求愛のアプローチを、不自然なほどに(拒否するのではなく)「気づかない」主人公が、その人物の死に対して、不自然なほどの大きな動揺を示す。この、通常では考えにくい(唐突な、予想しがたい)話者=主人公の心の動きの振幅の大きさが与える印象は、この小説の核ともいえる、一つのトーンとさえなっているように思う。つまりそれは、「他者」に対する時の「距離感」が、根本的に狂っている、あるいは、壊れているという感覚だと言える。
●前作『クビキリサイクル』は、現実にはあり得ないような設定のもとで、現実にはあり得ないようなキャラクターが動き回る話だったから、そこで交わされる会話も、全く現実離れしたものであっても(リアリティーなんて全くなくても)それ程気にはならなかったのだが、『クビシメロマンチスト』は、京都という現実にある場所が舞台で、しかもごく普通に居そうな大学生の話であるから、そこに前作で活躍したようなキャラクターや世界観が、どうしても上手く馴染まないという感じは否めないだろう。だから、前作で活躍した玖渚友とか哀川潤とかいったぶっとんだキャラクターは後方に退かざるを得ない。前作において「凡庸」であることの代表であったような話者の「いーくん」ですら、大学生のなかでは特異なキャラクターとして際立ってしまうだろう。このことから、前作では一応「語り手」に徹していた「いーくん」が、必然的に自らの意志で能動的に行動する(状況に関与する)役割を担うこととなり、そのためには「信用出来ない語り手」となるしかなかったのだ。そしてまさに自らの意志で行動する主役として、「いーくん」のキャラクターをもっと立てる必要が生じ、そのため、大学生たちに対しては「沈黙した存在」である「いーくん」が積極的に自らを語る相手としての、(あり得ない「友人」である)殺人鬼というキャラクターが必要とされたと思う。しかしこの殺人鬼のキャラクターが充分に生かされているとは言えないし、彼らが語り合う内容も、あまりに安っぽい哲学という感じで、そのような部分がこの小説の明らかな弱点となっているように思う。