裸婦を描く

●地元の愛好家の方々がやっているデッサン会に参加させていただいた。モデルを前にして人体を描いたのなんて、何年ぶりだろうか。人体をモチーフにした作品をつくりたいという思いは、2004年にマティスの展覧会を観て以来ずっとあったし、それは最近、演劇やダンスを観るようになって増々強くなってきていて、しかし、それが具体的にどういうものになるのかは分らないし、というか、「人体を描く」ということによって自分が一体何をやりたいのかという具体的なヴィジョンは何もないのだけど、しかし、作品をつくるということは、事前にあるヴィジョンを実現するということではなくて、とりあえず様々なアプローチをしてみて、自分のなかからいったいどんなものが出て来るのかを探りつつ、なにかをつくりあげてゆくことなのだから、目の前のモデルを見て描くというのも、そのためのアプローチの一つということなのだ。「人体を描く」ということ自体が久しぶりで新鮮だったこともあるし、作品をつくるという意識よりも、とりあえず肩ならしのキャッチボールとか遠投みたいな割合リラックスした気持ちで臨んだこともあって、とにかくとても楽しかった。絵を描くことがこんなに素朴に「楽しい」ことだと感じたのは、本当に久しぶりのことだった。
いわゆる「近代絵画の終わり」以降、もの凄い勢いで具象絵画が復活してきている。しかしその具象絵画は、モノを描くのではなくイメージを描くものだ。それは例えば、アニメのキャラクターが、人物をモデルにして造形されるのではなく、他のアニメのキャラクターやマンガのキャラクターなどの既に「表象物」となったものを参照して造形されるのとかわりはない。(だからそれは、人体よりも、「描かれた人体」に似ているのだ。)しかしぼくがやりたいのは、あくまで実際の人体から刺激されて作品をつくることだ。人体というものが他とは違った特別なモチーフになり得るということはおそらく、それを描いているぼく自身もまた「人体」であるということによる。ぼくが「人体を描く」というのも、それは人体の具象的なイメージを描くということを直接意味するわけではない。(だから人体を描いても、それは人体に似ていないかもしれない。)それは人体がつくりだす空間を捉えることであり、人体の動きを捉えることであり、人体が動くことによって空間が動くという出来事を捉えるということなのだ。そして、絵を描くということもまた、自分の身体の動きによって画面上の空間を動かしてゆくということでもある。
目の前にモデルがいるということは、表象物を参照して人体を描くということとはまったく違う。まず、裸の女性のまわりに、それを描こうとする人たちがぐるっと取り囲むという状況自体がひどく異様で不自然なものだ。この異様さは、マネの「草上の昼食」を観るときのような居心地の悪さを生じさせる。それは、小さなスペースでダンスの公演を観る時の感じにも近い。一人のダンスをする人体を、多くの、それもまた人体である観客が取り囲み、ひしめきあって見ている、というような。この状況の根本的な異様さに決して慣れてしまわないこと、この異様さを当然の「前提」としてしまわないことは重要だろう。「モデルを描く」という行為が、このような異様な状況に支えられているということを、忘れて絵を描くことはできない。人体を取り囲むことは、林檎や花を取り囲むこととはわけが違う。「モデルを描く」ということに不可避的にともなうこのような状況は、生身の人体(人間)をモデルとすることの暴力性を意識に上らせ、その意識は折り返されて、それを描いている自分のまた、同様に一個の人体であることを意識させる。
それと、単純に「モデルは動く」。ある固定されたボーズで一定時間居るのがモデルの仕事だが、とはいっても人間だから、たまに身体をほぐすような動きをしたり、鼻の頭をかいたりもする。それに、同じポーズとはいっても、休憩の前と後とで「全く同じ」というわけにもいかない。微妙にズレているのは仕方が無い。しかしこれは、人体を描く時の障害では決してなくて、むしろ「動く」(ポーズが崩れる)ことによって(人体の構造やそのポーズの空間性など)見えて来るものがある。人体を描くことが表象物(例えば石膏像)を描くことと異なるのは、この点にもある。終盤になってくるとモデルは、同じポーズを維持するのが辛くなってきて、動きも頻繁になってくるのだが、その時、最も頻繁に動かされる部分こそが、そのポーズでもっとも力や緊張が集中している部分なのだ。描く者は、当然それも感じている。マティスは、自分の学生に、モデルを描く時、自身もモデルと同じポーズをとってみることを勧めている。じじつ、人体の動きやそれがつくる空間を捉えようとする時、モデルを「目で見る」よりも、同じポーズをしてみることによる体感によって得られることは多いのだ。これもまた、モデルがたんなる「対象物」ではなく、自分自身もそうであるような「人体」であるということを意味する。モデルを描く人は、自分が、観察し、描く人という場に安定して留まることは出来ない。