●『海辺へ行く道 夏』(三好銀)。ネットで名前をみかけたような気がする、という以外にこの作家について何の情報もなかったのだが、本屋で見て、表紙の絵があまりにすばらしいので買って、読んだ。すごく面白かった。ぼくはマンガはあまり読まないのだが、『天然コケッコー』を教えてもらって読んだ時以来、というか、それを超えるくらいの衝撃。作品としてすばらしいということと、ぼくの好みに合いすぎということ。自分はなぜ、こういう作品をつくれないのかという歯ぎしりのような感情も湧く。
この作品の何よりすばらしい点は空間の構造で、空間の切断とモンタージュのあり様と、そして歪みだと思う。とにかくフレーミングがすばらしい。高さの異なるいくつもの平面が、仰角と俯瞰によって、見上げる視線と見下ろす視線によって、一つのコマのなかでモンタージュされる。つまり、高さの異なりによって分離されている複数の次元が、視線の向き(見下ろす、見上げる、水平)の変化によって貫かれることで、モンタージュされる。だからコマ(視点)が移動するその都度、異なるモンタージュが新たに構成し直されることで浮上する。ここで俯瞰と言っても、それは空間を一望するのではなく、フレームは常に限定的な狭い範囲しか示さないから、そのシーン全体の空間の構成は常によく分からない。コマが一つ付け加えられるするたびに、視線の向きがかわるたびに、空間は思いもよらない方向へ延びたり縮んだりして、構成は複雑になり、空間は迷宮のようになる。
高さの異なりによって隔てられている異質な空間を、視点が無理矢理結びつけるので、一つ一つのフレームは常にどこか無理が生じており、つまり空間が歪んでいる。そしてその歪み方は(つまり複数の次元の重ね合わせによって構図のなかで無理が生じる位置は)、コマによってそれぞれ異なるから、あるコマから次のコマへ、さらにその次へと進んでゆくうちに、地面が揺れるのではなく、遠近法の「歪み方」そのものが揺れていて、この揺れる感触、ゆらゆらするリズムこそが、ここで描かれる一見不条理な世界の説得力となっているように感じる。
そして、そのような空間の構造と、個々のエピソードや細かい細部とが必然性をもって分かちがたく絡み合っている。例えば、このマンガの登場人物の顔は不思議な感じで歪むことがある。多くの場合、人物が向かって右向きの顔を見せる時、その(向かって左側に見える)右目の位置と、右の顎のラインが歪むのだ。これは、意図的にそうしているのか、それがこの作者の顔を描く時の癖なのか分からないのだが、このような顔の歪みによって、ここで描かれる人物が「この作品内の世界(作品内の空間)」の住人であるこを示されているように感じられる(二話めの「回文横町」で、二人の人物が右目に眼帯をするし、さらに、全編で、弁当屋のおばさんのサングラスは右目側が光っているのだが、それはまさに、そこに空間の歪みが集約されているからのようにも思われる)。エピソードの次元でも、小さなエアコンや、異様にツバの長いサンバイザー、あるいは、物を巨大化させる地帯、海岸に流れ着く巨大な物など、形態や縮尺の狂いそのものがテーマとなっていることが多い。
(異様にツバの長いサンバイザーのエピソードで、唯一、全体を見渡すような俯瞰の構図があらわれるのだが、このタイミングで !、ここでこれか、という感じで、これもまた、すばらしいのだ。)
一コマ単位でのフレーム内部の歪みと、コマとコマとの間のブランクによって生じる歪みと飛躍、そして、見上げることと見下ろすこととの転換によるモンタージュの変化など、一見、空間の不連続が強調されているようだが、それは例えば、海岸にいつもいる弁当屋のおばさん(とはいえ、六話中三話しか出てこないが)や、逆に、常に不在で存在の痕跡しか出てこない黒猫など、登場人物の同一性が、空間の連続性を支えているように感じられる。いつもいる弁当屋は、空間の同一性をあらわす目印のようであり、不在の猫は、コマとコマとの隙間を住処とし、その間の、表に現れない潜在的空間を移動することで、コマとコマとをつないでいるだけでなく、空間の根拠そのものを支えているかのようだ。とはいえ、全六話中で、第三話になるまで物語の中心にいる人物が確定されず、その後も、新たな人物が説明抜きで次々と(予想外の方向から)あらわれるこの作品では、人物の同一性による空間の連続性は、ぎりぎりのところでようやく成立しているに過ぎず、そのあやうさもまた、この作品の大きな魅力となる。(なにしろ、一応、A町という名によって同一性を保証されてはいるものの、この町には海岸だけで、第一海岸から第三海岸まであるようなのだ。)
(夏の間だけ営業しているという弁当屋のおばさんがいなくなることで、この作品は閉じられる。まるで、このおばさんが去ることで、この作品のよって開かれた空間が消えてしまうかのようだ。しかし、顕在化された空間は消えたとしても、潜在的な空間は存続し、そのなかで猫は存在しつづけるだろう。最後のコマには、そのことが記されているかのようだ。)
絵柄的にも、一見、スマートでセンスが良いように見えるが、よく見ると描線はけっこう不器用だし、(前述したが)人物の顔などに向きのよってかなり歪みが出る。見開きの構成も、全体としてはすっきり目で、あっさりしているようで、時々、うわっとなるほどこってり、みっしり、こんもりのページもある(しかもページをめくった途端いきなり、という感じで)。物語的にも、独自の、自律的で幻想的な世界内でシュールな話が展開するように見えて、ところどころ、すごく下世話なというか、思いっきり今っぽい、現世っぽい空気が混じり込んできたりして、完全に抽象的なわけではない、という風に、けっこうふらふらした感じ。上品さと俗っぽさの混じり具合(混じらなさ具合)こそが面白い。最初の一話目と、最後の六話目とでは、かなりトーンがかわっていて、そういう意味で、作品としての統一性が弱く、やや散漫と感じる人もいるかもしれない。しかし、この作品では、全体を制御する統一感や整合性よりも、その都度その都度での、自由で意外性のある「動き」や「展開」こそが重視されている。かといって、作品として破綻してしまっているという感じでは決してない。一話一話での完結性と、連作としての連続性の間で、ふらふらしつつも、踏みとどまっている、という感じ。その感じこそがすばらしい。
あらゆる細部に深さと密度(根拠や必然性)があるように感じられるのだが、それと同時に、けっしてそれに束縛されない、軽やかさと自由すぎるくらいの(どっちに転ぶか分からない)運動性を感じる。任意にパッと、どのページを開いてみても面白い。すごく完成度が高いようでいて、けっこう不器用でふらふらした、あやうい感じもある。これは、すごい作品なのではないかと思った。
三好銀という人のことをまったく知らないので、ネットで検索してみた。しかし、ネット上にもあまり情報はないみたいだ。しかし、はてなのキーワードに1955年生まれとあって驚いた。なんとなく、ぼくより少し下の、七十年代はじめ頃に生まれた作家なのかと思っていたのだが、ぼくよりちょうど一回り上の人だった。