2026/01/01

⚫︎関田育子『at one』をDVDで観た(DVDは人からお借りした)。これは公演の記録映像ではなく、公演を一旦、解体(フレーミング・カット割り)し、再接合(モンタージュ)することで、別物の映像作品として再構築したものだと考えるべきだろう。

(観客席とは逆側からの視点、ジャンプカット、アウトフォーカス、映像(および音声)のポストプロダクション的な加工、画面の90度回転、カメラ目線、切り返し、クローズアップ、遠近法を強調する構図など、演劇とは異なる、明らかに映画的・映像的な手法がこれみよがしに多用されている。)

最初からまるで映画のようなカット割り・モンタージュがあって、「えっ」と驚いて「うーん」となった。そして正直、この「うーん」という違和感は最後まで消えなかった。関田育子の公演をちゃんと追っかけているわけではないのだが(いや、それどころかそもそも映像でしか観ていないのだが)、2023年の『micro wave』で特に顕著に観られるが、現実の(滑らかに連続する)三次元空間を、つまり何もない舞台空間を、俳優の配置と動き(仕草・演技)のみによって分解・解体して亀裂を入れた上で再接合し、多視点・多時間が共存する超三+一次元的な時空を作り出しているところがとても刺激的だ。今回のこの映像作品では、そもそもそのようなものとして成立している舞台空間を、カメラで撮影することで、別のやり方でさらに解体して再接合するということ(三次元空間に対する解体・再接合の二乗とも言えること)がやられているのだろうと思う。その試み自体はとても野心的で興味深い。

しかし、まずカメラの次元での解体・再接合で、「普通の映画のモンタージュ」がわりとベタに採用されている感じがあって、そのことと演技や演劇としての演出とが噛み合っていないように感じられた。カメラが演技や状況や物語を説明的に示してしまっているように思われた。たとえば、仰角と俯角や、構図と逆構図で切り返されるモンタージュが、あるいは、現実空間の90度回転を「画面の90度回転」によって普通に見せてしまうことが、せっかく俳優の立ち位置や仕草によって解体・再構築された独自の超三次元的な時空間を「常識的な三次元空間」として再解釈して元に戻して(相殺して)しまっているかのようなところがあった(おそらく、だから「説明的」だと感じられる)。

(特に作品の最後の場面、男の子が母親に連れられて帰っていくところを、男とバーの女将が見送る場面は、演劇として観たらすごく面白い時空が成り立っているのではないかと思うのだが、「映像・カット割り」によってわりと普通な感じになってしまっているように思う。)

それと最も気になったのはクローズアップだ。手や足(足元)のクローズアップが説明的に感じられたということもあるが、何より多用される「顔」のアップが気になった。え、これ何のためのアップ ? 、としばしば思ってしまった。通常の公演の記録映像でも俳優の顔がアップになることはあるが、それはいわば撮影者側の「主観」であって、舞台の演出も演じている俳優も「アップを意識した芝居」を提示しているわけではないだろう。たまたま、ある人の視線が「ある顔」をアップで捉えた(劇を観るある人の主観がその時に「その顔」に注目した)。そのような映像でありモンタージュであろう。しかしこの作品では明らかに「クローズアップのカット」が意識的に作られている。俳優も、演劇側の演出者も、そのカットがアップであることを知って承認している共犯者であろう。つまり「その顔」が「クローズアップ」であることが(撮影側の主観ではなく演劇側も含めた)「作品の構造的な必然」となる。

いわゆる映画(俳優が演じている映像作品)で、クローズアップには、そのクローズアップを含む一連のモンタージュの中での特定の位置・意味があり、クローズアップのためのフレーミングやライティングがあり、クローズアップのための表情や演技やメイクがある。それらすべてが、そのカットがクローズアップである必然性に向けて形作られるだろう。だがこの作品のクローズアップは不用意であるように感じられる。「不用意」とは、明らかに意図的でありながら十分には意図的でない、というような感じのこと。

そもそも「広角レンズの演劇」を標榜するグループがクローズアップを選択するのはそれだけで相当に(ある意味で自己破壊的な)「大胆な踏み込み」であるはずで、それについては「おお、アップにするのか、攻めてるな」と思うのだが、同時に「その攻め方、ちょっと不用意なのでは ? 」とも感じられてしまった。

この作品の中で「顔」が特に大きく映し出されるとき、その「顔」はどのような役割を持つのか。たとえば「感情」なり「その人物の年齢や出自などの特徴、つまり顔の持つ特異性と同一性」をどの程度強く押し出すものなのか(たとえば、「俳優の見た目の年齢(リテラルさ)」と「想定される役の年齢(フィクション上の役割)」との乖離・ギャップがより大きく、顕わになるが、それをどう処理するのか、など)、それにあたって、表情・演技はどのようにあればいいのか、アップの際のフレームはどのような基準で選択されるのか、などについて、十分に練られ考えられているようには思えなかった。これらのことを考え詰めなければ成立しないほど、「関田育子の演劇」と「顔のクローズアップ」とは両立が困難な異質なものだと思う。そこを踏み越えようとする野心と大胆さに対しては敬意を感じるが、噛み合っているようには思えなかった。

もしかすると、今まで書いたようなことを意図的にやろうとしているのかもしれないと、ここまで書いて思った。つまり、演劇としてのこの作品の特質を、意識的に「殺す」ように映像が組み立てられた、のかもしれない。しかしだとしたら、それは不毛な試みではないかと思ってしまう。

⚫︎とはいえ、ヤバい方向に確実に一歩踏み出してしまったのだから、もう元には戻れないだろうし、おそらくこれを推し進めていくということなのだろう。ぼくがここから感じた違和感やチグハグさのようなものが、もっと徹底され、より一層チグハグになれば、それは面白いのかもしれない。

⚫︎パフォーマンスのレベルでは、声を荒げるような強い発声、音を立てて強く地面を踏み鳴らす、痙攣的な動きをする(あと、俳優が相手の身体に直接触れるような仕草があって、ちょっと驚いた)、といった、これまでの関田育子の演劇作品と比べて、強く、荒い調子が目立ったように思う。ただしこの「当たりが強めの表現」が、作風や俳優のキャラと合っているかどうかは微妙だと思った。とはいえこれも、「今まで通りのところには収めない」という意思の現れであるのだろう。

⚫︎物語のレベルでは、一方に、母親からネグレクトされている子供を拾って、行きつけのバーや自分の部屋で保護する、弟の死に対して何かしらの後ろめたさを持つ男のパートがあり、もう一方に、ホラー映画を観た帰りに幽霊の話をする二人の男のパートがあり、一つ目のパートの子供と、二つ目のパートの幽霊とがニアミスするという構造になっている(一つ目のパートの男と二つ目のパートの男のうちの一人は、同一の俳優が重複して演じている)。話の中頃に、量子テレポーテーションについての説明がわりと長めに入るのだが(これはおそらく、ネグレクトされている子供が「自分は宇宙から来た」というようなニュアンスの幻想を持っていることの表現であるのだろうが)、量子論の神秘めかした使用はあまり良くないのではないかと、ぼくは思う。

⚫︎全体として違和感と戸惑いと共に観た、という感じだが、それは基本的に刺激的なもので(頭の中でいろんなことをぐるぐる考えながら観た)、決して退屈ではなかったということは付け加えておきたい。