2023/10/16

⚫︎YouTubeで、期間限定公開(10/13~11/16)の関田育子『波旬』を観た(しかし、こういう動画でもYouTubeは途中でぶった斬って広告を入れてくるのだ)。

関田育子『波旬』※期間限定公開(10/13〜11/16) - YouTube

⚫︎ほぼ三つの空間で成り立っていると思われる。部屋の中、夢または記憶の中、そして部屋の外。この三つの空間の(トポロジー的なと言えるような)転換のさせ方が、ぼくにはすごく面白かった。お話としては、海の事故で自らも溺れ、父を失った「くみこちゃん」が、その悲しみに呑み込まれて部屋に閉じこもっている。その部屋の外で「おばさん」が「くみこちゃん」に向けて呼びかけのノックをし、「くみこちゃん」と「おばさん」が直接会うことはないが、部屋の外から部屋の内へと「お芋の煮たの」が持ち込まれる。

(俳優が三人出てくるが、二人は背景的で、基本として一人芝居で、「くみこちゃん」も「おばさん」も同一の俳優が演じる。)

⚫︎映像として作られた演劇作品であると捉えられるが、同様の作品『盆石の池』とは異なり、空間にはあらかじめ舞台のような明確な正面性があり、上手と下手がある。そしてその上で、そこからの逸脱として(カメラ・観客視点の)後方空間が使用され、終盤には、明らかに(普通の意味での)映画的なモンタージュも現れる。

⚫︎最初に俳優が現れたとき、彼女の居場所はどこでもないどこかであり、荒い息をして父を呼んでいる。暗転の後、明らかに舞台的な空間が現れ、そこは室内であり、彼女はまず眠たそうな仕草をして、次に本を読む仕草へ移行するが、眠たそうなときは本を読んでいなくて、本を読んでいるときは眠たそうではなく、ふたつの仕草は不連続に分断されている。本を開いたまま、再び眠たそうな仕草に移るとノックの音がして、眠りに落ちそうだった俳優が顔を上げる。灯りを消し、ノックを無視して無理やり眠り込もうとする。すると、ノックの音の間隔が次第に狭まり、それはそのまま、ダッダッダッダッダッダッダッ、と、足踏みする音へと連続的に移行し、それに伴い現実の室内は夢、あるいは記憶の空間に移行する。足をバタバタさせながら泳ぐような仕草で舞台上をぐるぐる回る俳優は、カメラの構図の向かって左端からフレームアウトし、カットが変わって、カメラは、今までの視点から見て舞台に向かって左後ろの空間を映し出す。この左後ろのスペースは完全に部屋=現実とは別の次元の時空にあり、カメラの視点がここに一旦ここに移ったことにより、舞台上を映すアングルに戻っても、そこは記憶・夢と連続した空間へと変質している。

この、記憶・夢の空間には断続的とはいえ足を鳴らす音が印象的に持続して響いていて、それは、外からの呼びかけであるノックの音が、メタモルフォーゼした形で「ここ(部屋の中の、さらに心の中)」にまで届いているということだろう。この場面で、後悔を語る俳優は、それまでとは異質な、明らかに映画的なバストショットで捉えられる(ある意味、演劇的な時間の持続が断ち切られるようだ)。暗転の後、金槌で釘を叩くような早いリズムのノックの音が響く中、俳優は元の位置に戻り、現実の部屋の中で目覚める。

ノックの音が足を鳴らす音に連続的に変化し、舞台空間から、カメラ(観客)の位置の左後ろのスペースへと視点が移動することで、部屋=現実が夢・記憶・過去の入り混じった非現実的空間に変質するというのが、この作品のまず一つ目の空間の質的変化だ。

目覚めた俳優が、ノックがそこから聞こえる下手側にある大きなドアまで移動し、ドンッと大きくドアを叩くとノックは止み、次いで今度は俳優の方が、柔らかく、優しいタッチで、トントン、トントン、と、ドアを叩き始める。そして、トントン、トントンという音が持続したまま、俳優は空を叩くような仕草でその場で一回転する。このとき俳優は、「くみこちゃん」でも「おばさん」でもなく、非人称的な「ドアを叩く誰か」として存在していると言える。

一回転した俳優は、沈黙のまま、不自然なほど大袈裟な、貼り付けたように固まった笑みを浮かべ、ノックの調子も変える。そして唐突に「くみこちゃん、ごはん」と語りかけるが、この調子は、わざとらしいほど明るく、時にうわずるように調子を外す。ここでは、俳優のセリフと演技の変化によって、俳優は「おばさん」になり、カットさえ変わることなく、同じ空間そのままで、空間の内外が反転して「扉の外」の場面になる。ここでの、上滑りする過剰な明るさは、「くみこちゃん」と「おばさん」の関係が緊張を孕んだものであり、「おばさん」が「くみこちゃん」に対して腫れ物に触れるように気を使って接していることを表しているだろう。

二つ目の空間の質的変化。この空間の転換、「部屋の内と外との空間が反転する」という出来事が、ぼくがこの作品で一番驚いたところだった。さらに、この場面の、上滑りする「おばさん」の言動(パフォーマンス)が生み出すキリキリするような緊迫感こそが、この作品中で最も強く印象づけられた場面だった。

また暗転し、俳優が、舞台の背後にある小さな二つの扉のうちの下手側の扉から外に出て、上手側の扉から入ってくることで、舞台上は再び夢・記憶の場に変化する。このときは、先ほどとは違って足を鳴らす音はなく、無言で、深い闇に入り込むようだ。俳優は、先ほどとは逆の、カメラ(視点)の向かって右後方に向かって泳ぐ仕草で進み、「あ」と言って立ち止まると、ゆったりとした、しかし、もがくような仕草で、切れ切れに、「だれ、か、たす、け、て」と口にする。しばらくして俳優は「ぽこぽこぽこ」「ぽぷぽふぽふぽぷ」と口にして、これは沈んでいるのか、浮かび上がっているのか分からないのだが、ここでもノックの音が聞こえてきて、「くみこちゃん、大丈夫? 」「呼ばれた気がしたから」と声が聞こえるので、浮上しているということだろう。声にみちびかれるように、俳優は舞台上手背後の扉から外に出る。そして電話の呼び出し音と「もしもし」という問いかけ。

俳優が上手扉から外に出たあと、カットが変わって、椅子とランプを映し出すカットになる。そこから「おばさん」の声が無人の舞台に響くのだが、この「椅子とランプのカット」は、映画でよく使われる「時間経過を表すカット割り」そのもので、ここではかなりあからさまに、映画的なモンタージュで演劇的持続性を断ち切っている(ブランクを作っている)ように思われた。

(それにしても、「にたやつ、おいもの」という倒置したセリフの音は、どうしてもまず「似た奴」に聞こえる。)

そして初めて(というか、冒頭に次いで二度目か)、下手にある大きなドアが開いて、「おばさん」が用意しておいた食事の盛られたお盆をもった仕草で俳優(くみこちゃん)が入ってくる。俳優が椅子に座ると、ここで、明確に映画的としか言いようのないモンタージュ、そして構図で、俳優のバストショットにつながって、「ゆっくり、ゆっくり」と言いながら食事をとる仕草が捉えられる。ここもまさに「映画のカット」であり「カット割り」そのもので、正直ぼくは、「ええっ、こんなに映画でいいの? (しかも事実上、ほぼこれがラストカットだ)」と驚いてしまった。

あまりに「映画」になってしまったことを取り戻そうとするかのように、演劇的儀礼として、出演した三人の俳優が「客側」に向かって一礼するところで終わる。

⚫︎「くみこちゃん」から「おばさん」への、俳優の役割の転換が、そのまま、部屋の内側と外側という空間の反転と結びついているというところに驚かされたし、そこがとても面白かった。あと、演劇的時間の持続を断ち切るような、あからさまに「映画」そのままであるようなモンタージュ、そして構図(カット)がズボッと入ってくるところに驚いた。