2022/07/03

●『ひとりぼっちの二人だが』(舛田利雄)。去年くらいにちょっと話題になった映画がアマゾンにあったので観てみた。

話題になったのは冒頭の場面の一つのカットなのだけど、吉永小百合が着物に飾りのついた日本髪、白塗りで、舞台上で踊っている。カメラが徐々に吉永小百合の顔に近づいていく。クローズアップになると丁度踊りの休止ポイントで、動きが止まって決め顔になる。一間あって、ふいに、前後に二人の人影がフレームインしてきて、吉永小百合の鬘をとる。「けっこうなお仕度でございますなあ」というセリフがオフで入り、がやがやした音の感じになる。カメラが引いていくと、そこは楽屋のような部屋で、そしてなんと、吉永小百合の顔は鏡に映った像であった、となる。そんなに長いカットではないが、これが、どうやって撮ったのかまったくわからない、と、このカットだけ切り取られて話題になった。

つまり、背景の空間が、クローズアップのうちに舞台上から楽屋へと変わっていて、しかも、吉永小百合の顔が、実像から鏡像に変わっている。背景空間の転換だけなら、セットで撮影しているのだろうから、早変わりのセットを作れば可能だろうが、実像から鏡像へのシームレスな変換を、デジタル技術を使わないとしたら(1962年の映画だ)、どうやったら実現できるのかわからない。

さらに驚くのは、冒頭にこんな超絶技巧のカットがあるにもかかわらず、映画は、普通に吉永小百合浜田光夫コンビのプログラムピクチャーだということ。おそらく、撮影もかなり大変であるだろうと思うのだが、なぜこのカットが必要だったのかさっぱりわからない(このカットの異様さに気づかないで流して観る人もけっこういるだろう)。ただ、普通のプログラムピクチャーとはいっても、随所に様々なアイデアが盛り込まれていて、映画全体としての統一した形式がどうこうというより、部分部分で、かなり自由にやりたいことをやっている感じの映画で、とても楽しい映画ではある。超絶技巧のカットも、こんなことを思いついちゃったからやっちゃいました、みたいな感じなのだろう。

時代的に、ヌーヴェルヴァーグの遠い影響、あるいは、もっと近いところで松竹ヌーヴェルヴァークからの影響があるのだろう。ロケで撮られた場面が多く、当時の浅草の風景や空間を面白く切り取っている。また、吉永小百合浜田光夫だけでなく、チンピラ役の多くの若い無名の俳優たちが、浅草の街をひたすら走り回っているという感じも、ヌーヴェルヴァーグ的な空気感だ(吉永小百合さえも、走る、走る)。また、若いチンピラたちの、まだ半分子どもでやくざになりきれていない感じが生々しく、浅草の風景だけでなくチンピラの風貌からも、昭和三十年代後半はまだまだ「戦後」なのだなと感じられる。

とはいえ撮影所の映画だからセットもふんだんに使われていて、セットだからできることと、ロケだからできることが、統一感などをあまり気にせずに自由にまじりあっているのがいい感じ。そして、吉永小百合浜田光夫の映画ではあるが、実質的な主役は坂本九だろう。おいしいところはたいてい坂本九がもっていっている。