●お知らせ。『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』というアンソロジーに参加していています。この本は9月15日に発売の予定だったのですが、取次の都合で、流通にのるのは10月に入ってからになるそうです。アマゾンでは「一時的に在庫切れ、入荷時期は未定です」と表示されていますが、10月2日以降には買えるようになるはずです。
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●ぼくはこの本に、「突端・行き止まり・迷路・穴・模造/『海辺へ行く道』シリーズの半島的空間性」というテキストを書いています。三好銀という、既に亡くなってしまった漫画家の作品について書いたものです。二〇〇九年から二〇一二年にかけて描かれた『海辺へ行く道』と、同じ作者によって一九九一年から一九九四年にかけて描かれた『三好さんとこの日曜日』という作品を比べている部分を一部だけここに引用します。
《『三好さんとこの日曜日』にも、『海へと行く道』シリーズにも、重要な役割として猫が登場していますが、その機能の仕方は大きく異なります。『三好さんとこの日曜日』に登場する猫の梅は、積極的に姿を現したり隠れたりすることで、繋がりのない空間や時間を結びつけて、空間に地としての広がりを与える媒介として動き回ります。つまり、隠れるという行為まで含めて顕在的な媒介として機能しています。しかし、『海辺へ行く道』シリーズに登場する(というか、ほとんど登場しない)、バカ猫とかあいつとか呼ばれる黒猫は、積極的には現れないで、ほとんど隠れていて、影や痕跡のようなものとしてしか現われないことによって、空間を非連続的であるままに(抜け穴のように)関係づけているような媒介として機能していると言えます。》
《このことは、二つの作品における空間のあり様の違いを表していると思います。》
《『三好さんとこの日曜日』では、実際には絵に描かれていない、コマとコマとの間にある潜在的な空間への豊かなひろがりがあらわれているように思います。描かれている、見えている、風景、人物、物、猫たちが、実際には見えていない時にも存在していて、その、見えていないところでたくさんの出来事が起こり、出来事間の複雑に絡まる関係があって、そのごく一部分だけが、絵として、ページの表面にあらわれている、というようになっています。だから、ひとつのコマは、ひとつのフレームであるよりは、複数の出来事が交差する交差点のようなものになっていました。》
《『海辺への道』シリーズで空間は、主に、個別に存在する多数の空間の切断と接合(モンタージュ)においてあらわれています。つまり、『海辺への道』シリーズでは、その背後にある、描かれていない地としての潜在的な空間の広がりというものをほとんど感じさせないのです。コマの内側に描かれているものが全てであり、作品のつくる空間は描かれない地を通じて滑らかに繋がっているのではなく、コマからコマへの断絶を挟んだ非連続的な移行によって生じる差異や落差から生じていると言えます。空間は連続的であるよりも短絡的なのです。》
《これは、この作品に描かれる土地の見分けのつかなさにも現われています。A市には、第一海岸から第四海岸まで(あるいはそれ以上?)の異なる名で呼ばれる海岸があるのですが、その地理的関係が分からないだけでなく、風景として、景観としての差異や特徴がほとんど見当たらないのです。第二海岸には廃屋があり、第三海岸には高原という女性の事務所と「みはらし小路」と呼ばれる小路があるのですが、その廃屋からの眺めや、高原の事務所の立地(みはらし小路)は、A氏の二階屋からの眺めや立地にそっくりです。そして、作品の重要な舞台であるA氏の家や、ランチ屋のおばさんのいる岸壁が、何海岸にあるのかは最後まではっきりしません。また、A市と隣接すると思われるF市という街が登場しますが、このF市もまた、海岸がないという以外、A市と景観的に見分けがつきません。そもそもこの作品では、海へと突き出した建物などのフレーム内に水面を含む風景か、建物たちが幾重にも折り重なってまったく「抜け」のない迷路のような風景の、二種類以外の風景はほとんど描かれていません。それらはみんな似ていますが、しかしみんな違っていて、切り離されているのです。》