●お知らせ。明日(22日)の東京新聞夕刊に、六本木国立新美術館のアーティストファイル展の松江泰治の展示についてのレビューが載るはずです。先週掲載の予定だったのが一週延びたので、また変更される可能性もありますが。
●それにしても自分は、部屋の夢ばっかり見るなあと思った。たいてい、今、自分が住んでいる部屋という設定なのだが、その間取りや形態はいろいろ違う。今住んでいる部屋とほぼ同じだったり、前に住んでいた部屋だったり、まったく知らない部屋や一軒家だったり。でも、一番多いのは多分、実際に今住んでいる部屋と似ていて、微妙に間取りやスケールが違っている場合だと思う。昨日見た夢の断片として、ぼくが部屋にいると長州小力がトイレを借りに来て、そのまま便器に吸い込まれてしまうという場面を憶えているのだが、その夢の部屋もほぼ実際の部屋のままなのだが、トイレの位置だけ違っていた。後から考えると、(今の部屋の前の前に)学生の頃に住んでいた部屋(そのアパートは既にない)と、玄関とトイレの位置関係が同じだった。
これがどの程度他の人と違うのかわからないのだが、部屋に限らず、ぼくの見る夢はほとんど空間と関わっている。空間の夢というのが圧倒的に多い気がする。つまり、夢のなかで自分が今居る場所がどのような空間で、それが他の空間とどのように繋がっているか(関係しているか)ということが夢の主眼であることが多い。それが実在する空間であったとしても、他の空間との繋がり方が違っていたり、歪んでいたりする。空間が歪むのは夢だから当然なのだが、夢のなかのぼくは(というより、それを見ているぼくは、というべきなのか)、具体的な風景や細部よりも、その歪みや関係そのものこそを楽しんで(味わって、問題にして)いるようなのだ。
清水崇がプロデュースした『怪奇大家族』というドラマで、家の部屋と部屋、あるいは部屋と押し入れや廊下の関係がどんどん入れ替わってしまって、どこをどう行くとどうなるのか決定できずに、家族みんなが家のなかで迷ってしまうという回があるのだが、ぼくはもう、そういう話が無条件に好きなのだった。それってそのまま『インランド・エンパイア』だったりするのだが。
そういえば、ぼくが書いた小説もそのまんまなのだった。あんまり、自作解説や自己言及みたいなことはしたくないのだが、これは、そのように書こうと意図したというより、後から考えればそうなっていた、ということなのだった。実際に見たいくつかの夢の場面を使いながら、その場面と場面(空間と空間)との関係が(『怪奇大家族』の部屋と部屋とのつながりがどんどん変わってしまうように)よりどころなくどんどん移動していってしまうというような感じを書きたかったのかなあと。ここで重要なのは、たんに空間(のつながり)が書き換えられるのではなく、空間と空間との関係を制御している(いわばメタ空間的な)秩序そのものが動いてゆくというところにまで届かなければ、退屈なものになってしまうのだが。関係そのものを可能にしている不可視の、関係づけのための地平のようなもの、それそのものが、先に進むとその都度崩れては、別のものに組み直されるというような、決して見渡せない流れをつくるというようなこと(トリッキーになり過ぎたかもとは自分でも思うけど、決してトリックそのものが主眼というわけではない、はず…)。
勿論、それだけということではないのだが。